きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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「クモガクレ」 |
Calumia
godeffroyi |
カワアナゴ科 |
2003.11.1(土)
午前中は職場の運動会があって、参加してきました。家族を含めて200名ほどの人が会社の運動場に集まって、賑やかでしたね。私は大縄跳びと綱引き、それに水の祭典≠ニ呼ばれる一升瓶に水を入れるというゲームに参加。酒の祭典≠ネら勝ったんでしょうが、負けてしまいました。もっとも、一升瓶に入れるのが水じゃなくて酒だったら呑んじゃうから、やっぱり負けかな(^^;
やはり身体は衰えているなと実感しました。大縄跳びでジャンプを繰返しているうちに内臓が苦しくなってきました。息をするのも辛いほどでした。中学・高校の頃はバスケットボールをやっていましたからジャンプなんて苦にならなかったんですけどね。それから40年、身体の細胞は当時と比べると全部入れ替っているでしょうから、いわば別人になっているわけで、まあ、無理もない話ですね。
午後からは6人ほど私の家に集まってガーデンパーティー。そんな大袈裟なものじゃありませんけど、庭にキャンプ用のテーブル2台と椅子8脚を置いて、炭火の焼肉パーティー。集まったのは昔の職場の元・懇親会幹事を中心に若い女性3名、中年の男ども3名。キャンプをやっていた頃もそうだったのですが、私は食事の支度には一切タッチしません。口でああやれこうやれとは言いますけど、手を出さず食べて呑むだけ(^^;
おっと、呑むと云えば「久保田・萬壽」を持って来てくれた人がいたなぁ。当然、争って呑みました。私はポケットマネーで「八海山」を用意しておきましたけど、こちらは売れませんでしたね。
13時頃から始まって、終ったのが19時頃。したたかに酔いましたけど、一応ホストですからね、寝ないでガンバリました。気の合った仲間と自宅で呑むのは最高。帰る心配がないからしっかり呑ませてもらいました。片付けもみんながやってくれたし(^^;
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で、皆さんをお送りした後は急に酔いが回って、そのまま爆酔。運動会の疲れもすっかりとれた休日でした。
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2003.10.10 |
千葉市花見川区 |
鈴木 俊氏 発行 |
非売品 |
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ユビキタス 田中ひさ
ユビキタス いつもあなたのおそばに
マリーアントワネットを守った
騎士フェルセンのように
あなたのおそばにスタンバイ
ユビキタス 時空自在
斗雲に乗った孫悟空のように馳けめぐり
いつでもどこでもネットにつながる
ゴマ粒大のICチップをつければ
徘徊老人の居所も立ちどころにキャッチ
食品に埋め込んだチップで買物は自動決済
品質保持期限もバッチリ管理
チップ同志の伝達で
子供のとび出しも車を制御
人間の身体にICチップを埋め込み
国民総背番号ならぬ超管理社会は
SFの世界か
(注)ユビキタス…ラテン語 偏在する
「ユビキタス」の提唱者で、「ユビキタス」に使われる日本語OS・TRONの生みの親、東大の坂村健教授とは昨年まで同僚でした。と、言っても日本ペンクラブでの話です。電子メディア委員会で5年近くご一緒していました。「ユビキタス」の話も出ていましたから、かなり早い時期に知っていたのですが「国民総背番号ならぬ超管理社会」という危惧は当初から私も持っていました。坂村教授自身は真面目な研究者で「子供のとび出しも車を制御」あたりまでは考えていたようですが、それ以降は話題になっていません。提唱者としては当然考えているはずですけど、あってほしくないという思いだろうと想像しています。
便利になればその影の部分が出てくるのは、世の常です。それを防ぎながら開発するのが研究者の仕事ですが、難しいというのが実体だろうと思います。しかも「国民総背番号ならぬ超管理社会」を作るのは国家権力ですから、国民の側で何もしなければ簡単に実現してしまう怖れがあります。技術的な防御は研究者に任せるとしても、国民のひとりとしては監視する必要があるでしょう。
決して「SFの世界」ではなく、5年後10年後には実現しているはずです。タイムリーな作品で、そんな怖れを的確に表現しています。作者にも是非監視に加わっていただきたいと思った作品です。
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2003.11.1 |
東京都大田区 |
ダニエル社発行 |
300円 |
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櫛 粕谷栄市(かすや
えいいち)
夏の夕、気がつくと、その女は、町はずれの川原に来
ていた。誰もいない川原に、ひとり佇んでいて、ぼんや
り、遠くで、風に吹かれている柳の木を見ていた。
もうお前に逢えなくなった。逢わないほうがよさそう
だ。そう男に言われてから、七日たった。あれから、自
分が、何をしているのか、分からなくなった。
どこかで、宿屋の女中の着物を着た女が、膝をついて、
客のいる部屋の襖を開け、また、膝をついて閉めて、働
いていたが、この世は、何もかも、さま変わりしていて、
みんな、その知らない女のしていることだった。
夜になって、ふとんに入っているときだけ、その女は、
今の自分になって、声を忍んで、泣いていたのだ。
ずっと昔、親に別れ、川舟に乗せられて、この宿場の
町に来たときも、そんなことがあったような気がする。
ものごとには、一度、終ってしまうと、もう取り返し
のつかないことがある。それから、どうするかは、人に
よって、いろいろとある。
おとなしい宿屋の女中は、だが、それが分からず、黙
って動いているしかない。いつもと同じように、客の膳
を運んだり、階段を拭いたりしているしかない。
けれども、七日たって、気がつくと、町はずれに来て
いた。いつのまにか、その広い川原を歩いて、柳の木の
下で、水の流れを見ていた。
もうお前に逢えなくなった。逢わないほうがよさそう
だ。底意地の悪い三日月が、遠くなった宿場の町の空で、
いつまでも、そんな男の声色を使っていた。
この世には、さまざまなことがあるが、使い古した枕
のように、結局は、みんな、どこかに見えなくなる。
ひとりの名もない女の一生は、その道の半ばで、とだ
えている。淋しい夏の川原の岸辺に、赤い櫛が、一枚、
泥に埋もれて、残されているだけだ。
「ひとりの名もない女の一生」は私たちそのものの一生なのかもしれません。「自分が、何をしているのか、分からなくな」ることも多いですし、「知らない女のしていること」という浮遊した状態があるいは日常なのかもしれませんね。そして「ものごとには、一度、終ってしまうと、もう取り返しのつかないことがある。それから、どうするかは、人によって、いろいろとある」ことも実感として持っています。最後には「淋しい夏の川原の岸辺に、赤い櫛が、一枚、泥に埋もれて、残されているだけ」の存在なのかもしれません。そんなことをフッと考えさせられた作品です。
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No.40
記念号 |
2003.10.15 |
北海道苫小牧市 |
入谷寿一氏 発行 |
500円 |
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有事 入谷寿一
洗面台の上にうっすらと埃が乗っている。上を向くと換気扇に埃
がぶら下がっている。掃除機を背負って挨を吸い取る。洗面台も
拭き取る。
手を洗いにいくとまた埃が乗っている。見上げると埃の雨が落ち
てきた。隙間から毛むくじゃらな長い脚が見える。黒灰色の蜘蛛
のような虫が這い回って溜まった埃を降らしているのだ。
掃除機で吸い取ろうとしたが、内部の器具の上に触手を張り付け
て出ようとしない。
換気扇を回すと、飛ばされまいとして表に出てきた。体長三セン
チもあるイエオニグモだ。四対の脚に剛毛を生やしている。
掃除機で吸い取って袋ごとゴミ出しのビニールに入れ、口を縛っ
た。
洗面台にいくとまたまた挨が付いている。まだ何者かが潜み、何
か信号を送っているのか。
埃の・・・・で。
闇の中に光る小さな碧眼。
タイトルが素晴らしいと思います。「埃」「蜘蛛」を「有事」の喩として説明するのはちょっと難しいかもしれませんが、言わんとしていることは何となく伝わってきます。個々の詩句を解釈する必要はなく、全体として伝わってくるものを感じ取れば良いのだと思います。読者の想像力を刺激する作品と云えましょう。それにしても「まだ何者かが潜」んでいるという設定は、ちょっと怖いですね。
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2003.11.3 |
静岡県沼津市 |
望月良夫氏 発行 |
年間購読料2500円 |
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「禁止」と名の付く法的規制はろくな結果
を生まない。一番ひどいのはアメリカの禁酒
法だ。ギャングの跋扈を生んだだけだった。
次は日本の売春禁止法だ。禁止の後の対策が
取られなかったために、風俗営業の蔓延を齎
し、風俗びん乱は今や中高生の援助交際にま
で及んだ。
峯島正行氏の「禁止条例の不安」というエッセイの中の一文です。千代田区での喫煙禁止条例に端を発するエッセイですが、煙草は合法的に売られている物なのにおかしいではないか、という主張の後に紹介した文章が続きます。
「禁止」ということでは私もすぐに「アメリカの禁酒法」を思い浮かべましたけど「売春防止法」までは考えませんでしたね。もうすっかり過去の法律で、自分の生活には関係がないと思っていましたが「中高生の援助交際」と書かれると、なるほど現在に続いているのかと納得します。その原因が「禁止の後の対策が取られなかったため」とするご指摘は鋭いと思います。そこまで考えないと生きた法律ではない、ということなんですね。会社や地域社会でルール・取決めを作る際には一考の必要がありそうです。
ちなみに峯島氏は煙草を吸わないそうです。
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