きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり

  kumogakure  
 
 
「クモガクレ」
Calumia godeffroyi
カワアナゴ科

2003.11.2(日)

 日曜だというのに朝から出勤して、14時頃まで働きました。それでも足りなくて(^^; 19時過ぎに出勤して1時間ほど働きました。何やってんだろうね、まったく。
 急ぎの仕事があって、3連休ですが部下に出勤をお願いしました。毎日出てもらうのも申し訳ないので、初日は二人とも休み。今日は私が出勤、明日は彼女が出勤ということにしたんです。でもデスクワークではなく、実験機器の運転ですから楽しかったですよ。私の管轄になった機器ですが、実際に私が動かすことはなく、従ってよく知らない。ついでだから取扱説明書を読んで理解しておきました。全部で200〜300頁ほどの分量がありましたけど、読んでいて夢中になりました。まるで小説を読んでいるよう(^^;

 実際にはそんな取説なんて無いんですが、よく読みこんでいくと設計思想が見えて、その辺が小説らしいと言えるかもしれません。それにしても取説の文章って下手だなあ。もっとロマンチックに、、、そんなもの無いナ。



  田川紀久雄氏詩集種田山頭火を詠む
    taneda santoka wo yomu.JPG    
 
 
 
漉林叢書19
2003.11.10
東京都足立区
漉林書房刊
1300円+税
 

   16

   今日も山頭火の句集を詠みつづける

   悲しみ澄みて煙まつすぐに登る

   蝶ひとつ飛べども飛べども石原なり

   「定本種田山頭火句集」最後の方の頁を開く
   漉林一一五号の原稿もそれほど集まらない
   これも業の深さから招いた結果なのだろうか
   生活が益々苦しくなるばかりだ
   これから私は何処へ行くのだろう
   病気をしても医者にかかる費用すらない
   この先いろいろと考えても何一ついい事がなさそうだ
   妹がこれから先どうなるのかだけが心配である
   もはや私の力ではどうにもならないところまで来ている
   なるようになるしかない
   と心で決めていても
   寝る時は不安でなかなか眠れぬことが多い
   そんな時にはバッハのロ短調ミサ曲を聴いている
   一九五〇年ウィーンで演奏したカラヤン指揮のCDを
   詩語りもどうしたらよいのか迷いっぱなしだ
   語り切ることが本当に可能なのだろうか
   作品といつでも心中することができるのか
   そこまでいけない自分自身に対して歯がゆい思いで一杯だ
   真夜中自分の声をCDで何度となく聴き返す
   ああ なさけない なさけない
   と暗闇に向って呟くしか出来ない

   このみちどこへゆくふかく落葉して

   と山頭火の句が脳裏の片隅をよぎっていく
   いつまで経っても諦観できない自分の姿にあきれるばかりだ
   ここまで生きてきたのだから
   それだけでもいいと思えばいいのだが
   詩を書かせる自分がいる以上
   まだまだ苦しんで生きていろということなのだろう
    もう暫く歩くしかなさそうだ
   このへんで山頭火の句集をひとまず本棚に仕舞うことにする
   あとは自力で生きてみよう

 「
種田山頭火を詠む」日々が1から16に渡って描かれています。紹介したのはその最終部分です。技巧を超えた本物の精神の声が伝わってきます。あるいは本物の詩人の声が、と言い換えても良いでしょう。会社に勤めて生活はそれなりに安定し、その余技で詩らしきものを書いている私などにはとうてい出来ないことをやっているわけで、この詩集の前では言葉を失くしてしまいます。
 詩の道を究めるとはどういうことか、今回も考えさせられた詩集です。



  詩と評論・隔月刊誌『漉林』116号
    rokurin 116.JPG    
 
 
 
 
2003.12.1
東京都足立区
漉林書房・田川 紀久雄氏 発行
800円+税
 

   小詩集「夢六話」                  高橋 馨
    ――夢の中では想像力さえ沈黙している――
         (ロジエ・カイヨワ「夢の現象学」金井裕訳)
    飼い犬

   いやな夢をみた。

   やってきたのは
   子供たちだ
   ふざけあって
   調子に乗った一人が

   おれの頭に
   後ろから
   なにか被せた。
   ポリ袋

   とっさに
   逃げ遅れた
   女の子を捉えた。
   見知らぬ小学生

   引き寄せて
   拳固で
   殴った。
   けろっとしている

   「謝れ」
   二発、頭を殴った。
   「ごめんなさい」
   と女の子は言った。

   仲間は逃げて
   だれもいない
   かわいそうに
   思えた


   「いい子じゃないか」
   女の子の頭を
   おれは
   なぜてやった。

   家に
   女の子が訪ねてきた。
   お母さんも一緒に
   謝りたいと言った

   母親に会う前に
   目が覚めた。

   近所の犬が
   まだ遠吠えを
   続けていた。
   殺してやりたいと思った。

 小詩集「夢六話」ですので、この作品の後には5編の散文詩があります。ここでは冒頭の行分け詩を紹介してみました。
 タイトルの「飼い犬」に該当する詩句は出てきません。最終連の「近所の犬」が近いので、近所の人が飼っている「飼い犬」という解釈ができるかもしれません。でも違うような気がします。「子供たち」を「飼い犬」と解釈することも可能でしょう。これも違うかな。「夢」ですから難しいのですが、最終連の「殺してやりたいと思った。」は何故か実感がありますね。



  詩誌『馴鹿』34号
    tonakai 34.JPG    
 
 
 
 
2003.10.30
栃木県宇都宮市
tonakai 我妻 洋氏 発行
500円
 

    利尻のカラス    我妻 洋

   利尻は海に囲まれているから
   ウミネコの声に終日包まれているのは当然である
   森の湖にまでやってきて浮かんでいる
   カラスの姿は見えない
   利尻のカラスよどこへ行った
   出てこい
   礼文のカラスは
   ぬけめなくお花畑に入り込み
  ガンコウランの熟れた実を
   首をかしげながら啄ばんでいたぞ

    ※岩高蘭のこと。ガンコウラン科の常緑小低木。本州中部以北や
    サハリン・中国・朝鮮などの高山帯に生える。茎は地上を這う。
    果実は直径約一センチで黒く熟し、甘ずっぱくジャムや果実洒に
    もする。

 「利尻」には「カラスの姿は見えない」んですね。そのことにまず驚かされます。生態学的にはどういうことなのか判りませんけど、あのいまいましい鴉がいないなんて!
 私はいまいましい≠ニ思いましたけど、作者にとっては逆に「出てこい」と呼びかける対象なんですね。そこに作者の度量の広さを感じます。一元的なモノの見方を戒められて思いもします。たった10行の詩ですが生態といい動物への愛情といい、教えられることの多い作品だと思いました。



  文芸誌『らぴす』19号
    lapis 19.JPG    
 
 
 
 
2003.10.10
岡山県岡山市
アルル書店発行
700円
 

    おまイの。しせ(出世)にわ。みなたまけました。わ
   たくしもよろこんでをりまする。なかた(中田)のかん
   のんさまに。さまに。ねん(毎年)よこもり(夜寵り)
   をいたしました。べん京(勉強)なぼでもきりがない。
   いぼし(地名)ほわこまりをりますか。おまいか。きた
   ならば。もしわけ(申し訳)かてきましよ。はるになる
   ト。みなほかいド(北海道)に。いてしまいます。わた
   しも。こころぼそくありまする。ドカはやく。きてくだ
   され。かねを。もろたこトたれにもきかせません。それ
   をきかせるト。みなのまれてしまいます。はやくきてく
   たされ。はやくきてくたされ。はやくきてくたされ。い
   しょ(一生)のたのみて。ありまする。にしさむいてわ。
   おかみ(拝み)。ひかしさむいてわおかみ。しておりま
   す。きたさむいてわおかみおります。みなみたむいてわ
   おかんておりまする。ついたちにはしをたち(塩断ち)
   をしておりまする。ゐ少(栄昌院)さまに。ついたちに
   わ。おかんてもろておりまする。なにおわすれても。こ
   れわすれません。さしん(写真)をみるト、いただいて
   おりまする。はやくきてくたされ。いつくるトおせ(教
   え)てくたされ。これのへんちち(返事)まちてをりま
   する。ねてもねむられません。

 前田総助氏の「文章軌範番外編」では、野口英世の母シカの手紙、東京オリンピックのマラソン銅メダリスト円谷幸吉の遺書、勝海舟の父・小吉の奇書『夢酔独言』を採り上げて名文とは何なのだろうということを論じています。これが実に爽快で切れ味の良い名文≠ナした。
 紹介した文は野口英世の母シカの手紙です。この手紙について前田氏は次のように記しています。

    時は大正三年、会津は猪苗代湖畔に住まう貧農の老婆は、
   立身出世して遠く太平洋を距てた異郷にある一人息子に、
   囲炉裏の灰で手習いした金釘流をもって、かき口説きかき
   口説き哀訴している。
    だいたい文章表現とその表記とは分かち難く結びついて
   いるものであって、下手くそな手書きを整理整頓して活字
   や印字に変換するのは、すでに原文の肉声の生生しさをい
   くらか薄めることであり、原文のいのちの幾分かを殺ぐこ
   となのである。だから筆者としては、できれば野口シカの
   金釘流そのままを写真版ででも見てもらいたいのであるが、
   それでは大方の判読に堪え得ないおそれがあるので、やむ
   なく印字に起こした。しかしそれも読解可能限度すれすれ
   に留めて、カタカナ混りの総ひらかな、読点なし句点のみ
   の原文表記を尊重することとして、それでは文意不通が懸
   念される箇所に、やむなく括弧を付して漢字を註記した。

 (従って、上述の手紙は野口シカの著作ですが前田氏の編集を経ていることになります)
 他人の心を動かす文章とは何かを野口シカの手紙で知り、それを簡潔に過不足なく表現することを前田氏の文章で教わった気がしています。この後、円谷幸吉の遺書、勝小吉の奇書についての論考もおもしろいのですが、それは残念ながら割愛します。機会があったら読んでほしいですね。文学・文芸の本質を丁寧に論述していて納得させられます。




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