きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり

  kumogakure  
 
 
「クモガクレ」
Calumia godeffroyi
カワアナゴ科

2003.11.3(月)

 3連休の最終日。今日は部下の女性に出勤してもらいました。夕方、電話をもらって仕事が無事に終えたことを確認。女性がひとりで出勤していますからね、帰り際には電話をもらうようにしていました。
 昨日は私が出勤して、これで仕事の遅れは取戻しました。これで先月から毎週、土日のどちらかは出勤してしまったことになります。まあ、仕事だからしょうがない。できれば休日出勤なんかしないようにしたいものですが、この不景気にそれだけ仕事があるという言い方もできます。喜んでいいのか悲しんでいいのか、複雑な気持ですね。



  詩誌『青空』2号
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2003.10.30
茨城県水戸市
米川 征氏 発行
非売品
 

    頂上    米川 征

   登って
   行くと

   頂上は
   岩で

   岩は
   当然のように

   風に晒され
   髑髏の形をしていた

   見渡すと
   向こうも

   その
   向こうも

   みな

 非常に判りやすい作品なのですが、よく考えてみるとはっきりと判っていない自分に気づきます。「頂上は」「みな」「髑髏の形をしていた」ということだけを言っているのですけど、風景としては理解できます。でも、それだけなんだろうか? 例えば社会的に「頂上」に至った者が見た風景という読み方もできるのではないだろうか、そんな思いもします。
 作者の意図は単なる風景なのかもしれません。あとは読者が勝手に自分の風景を創れば良い、そう言っている作品なのかもしれませんね。言葉の上ではやさしい詩ですが、読み方によっては深い作品だと思います。



  詩誌『へにあすま』26号
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2003.9.20
千葉県流山市
へすまにあの会・宮田登美子氏 発行
300円
 

    風俗小説論    千木 貢

   激しい雨を浮世絵のように眺めて
   あら、
   カノジョは唇からカップを離し
   いかにも苦い表情をした
   さっきから降っていたのに
   今気づいたように
   雨ダワ

   困惑はそのせいではなかったけれど
   雨のせいのようにして言ったのは
   つい先程別れた幼なじみの背後から
   入れ替わるように昔のカノジョが
   テーブルの彼方に小さく座していたからであった

   濡れて帰るとしたらまったくそのせいだ
   昔のカノジョが雨をヨンだ
   つまらぬことばを綴って
   思いがけずに時間を取ったから
   雨になった
   濡れた舗道が人生のように映る
   予報がはずれてみんな駆けだしている

   感情を埋めて 埋めて
   カノジョはまったくなげやりだった
   骨の折れた赤いコウモリ傘の役目もしない
   昔のカノジョは
   分厚い辞書を抱えるように
   コーヒーを呑んでいる

   あら、
   カノジョは
   今気づいたように
   変換のきっかけを失って
   苦いコーヒーを呑み干した

 タイトルが素晴らしいですね。舞台もいかにも「風俗小説」のような設定で、つい、引き摺り込まれてしまいます。よく考えると、作品の一字一句を理解して読んでいるわけではないと気づくのですが、そんなことを通り越して迫ってくるものがあります。例えば「濡れた舗道が人生のように映る」とか「分厚い辞書を抱えるように/コーヒーを呑んでいる」というフレーズに惹かれて、全体をそういう眼で見ているなと思い至ります。そういう意味では得している℃黒ムと言えるかもしれませんね。



  土井のりか氏詩画集『母の海でうたた寝して』
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2003.10.15
東京都新宿区
美研インターナショナル刊
1200円+税
 

                母の海

              ともづな
         しなやかな艫綱の先で
          ゆれている わたし
     そこは まどろみの海 水の里

          母がひそめる内海で
        波の頬ずりもここちよく
        舟出のときを待って遊び
     すごしていた あの日のままに

            夜更けの湯舟で
   
とこはる    うたた寝していた束の間
   常春の 母の海に戻っていたわたし
       まろやかな形に膝をだいて

            湯舟の内側から
         時折 とんとんとんと
       母への信号を送ったりして

              目覚めれば
       人肌のぬくもりの中にいて
     想いを亡き母につのらせながら

 長野伎見子という画家の絵に作者の詩が添えられている詩画集です。詩は日本語と英文の双方が載せられています。紹介した作品は冒頭のもので、「
Flower Shop」(F80 1994年制作)という絵とともにありました。80号の絵ですから、原画はかなり大きいようですね。その絵も紹介したいのですが著作権を考慮して断念します。
 紹介した「母の海」はもちろん胎内のこと。最終連の「想いを亡き母につのらせながら」というフレーズで詩を引き締めていますし、生命の継続を感じさせてくれます。その他、お孫さんを詠った作品も多く、詩と絵を楽しんで安らかな気持になれる詩画集です。



  飯嶋武太郎氏共訳詩集『その島を胸に秘めて』
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崔 金女氏作・鴻農映二氏共訳
2003.10.30
東京都豊島区
東京文芸館刊
2000円+税
 

    整形手術した詩

   鼻が見目よくなきゃあ
   鼻を高くする

   眼は涼しい眼に
   眼をいじる

   高すぎる背丈は
   脚を切り落とす

   口が大きいので
   小さく縫う

   ふらふらの わが詩よ
   端切れの寄せ集めの わが詩よ

 この詩集は韓国文学振興財団の翻訳詩集に選定されて刊行されたものだそうです。韓国詩壇の見識の高さにまず敬意を払いたいと思います。
 作品は比較的短い詩が多く、紹介した作品はその意味でも標準的なものと云えましょう。しかし、作品の良否は長さには何の関係もないことがお判りいただけると思います。日常的に詩らしきものを書いている身としては、耳の痛い作品ですが、一面の本質を突いていると言えるのではないでしょうか。「ふらふらの わが詩よ」、いつかお互いに納得できるものにしたいね、とそんなことをつい囁いてみたくなります。詩についての詩というのは少なからず見ますが、こういう視点の作品には初めて出合った気がします。切口の新鮮な作品だと思います。




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