きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり

  kumogakure  
 
 
「クモガクレ」
Calumia godeffroyi
カワアナゴ科

2003.11.8(土)

 本日の土曜日も出勤。今日は部下の女性と二人で出勤しました。月報をまとめてもらって、それをチェックして午前中で終りましたから、まあまあ、というところですかね。
 昼は娘の高校の文化祭に行ってきました。模擬店で焼ソバをやると聞いていましたから、それを昼食にと思って行ったのですが、まだ準備もしていない。思わず女生徒数人に向って「早く作れ!」と言ってしまいましたけど、完全に無視されましたね(^^; うちの娘の父親だと判って女生徒たちは驚いた顔をしていましたけど、あとでイジメられなかったかな?(帰宅して聞いたら大丈夫だったそうです。大恥かいたちは言ってましたけど…)
 駐車場もなくて、変な処に車を止めたので早々に帰ってきましたけど、若い高校生の集団を久しぶりに見て、何か活力をもらったような気になりました。素直に育てよ、諸君!



  佐久間隆史氏詩集『花の季節に』
    hana no kisetsu ni.JPG    
 
 
 
 
2003.11.1
東京都新宿区
土曜美術社出版販売刊
2200円+税
 

    細道

   「ここはどこの細道じゃ」
   と言うから
   「この世の外への細道じゃ」
   と答えておいた

   「どうか
   通してくだしゃんせ」
   と言うから
   聞こえないふりをして
   仕方なく黙っていた

   道の彼方に
   天神様など
   ありはしないのに
   どうしたことか
   いっペんの童謡にたぶらかされて
   今日もまた
   眼に見えないその細道を
   向う側へと
   消えてゆくひとがいるのだ

 詩集全体としては異界と現世との境をうたっている作品が多いように思います。それもドロドロとしたものではなく、どちらかと言うとアッケラカンとした印象を受けました。紹介した作品にもそれはよく反映されていると云えるでしょう。本当は「この世の外への細道」なんですから怖いはずなんですけど、「聞こえないふりをして/仕方なく黙っていた」「向う側へと/消えてゆくひとがいるのだ」などの淡々としたフレーズに出会うと、ああ、そんなもんなのかなと妙に納得させられます。「道の彼方に/天神様など/ありはしない」んですけどね、佐久間隆史詩を読むと存在しているように思えるから、それも不思議です。いわゆる現代詩の中では一味違った詩風だと思いました。



  奥田博之氏詩集新しい光に包まれ
    atarashii hikari ni tsutsumare.JPG    
 
 
 
 
2003.11.1
大阪府豊能郡能勢町
詩画工房刊
2000円+税
 

    

   これより西に向かえと
   乱れ髪の少女が夢枕に立ち
   巫女に似た不思議な仕草で言葉する

   東方にはまだ霊性の光はあるのに
   輝く柴のなかからモーゼの杖をかざして
   衰退の一途を辿る西を示す

   それは 天変地異に驚く
   憶病な狐の 人を欺く手管か
   物質文明の滅びの暗示か
   改変の到来を告げる予言者の声か

   夢のなか世界は一変し
   雷鳴天に轟き
   稲妻は黒雲を裂いて闇を走り
   胸騒ぎする不安な血の匂いを
   周囲に撒き散らす

   嵐のなか 私に
   これより西に向かえの託宣は
   いまを除いて他にない恵みとなるのか
   「一」の思想の収穫を急ぐあまり
   洋の東西を一つの器に注ぐは
   愚の骨頂ではないのか

   しかし
   インドの水に馴染んだ私に
   少女の指差すは
   紛れもなく西である
   厭離稼土・欣求浄土ではなく
   地獄の釜が割れて
   そこに拓ける新しい西である

 硬質で、しかも質の高い作品群に読者は圧倒されるかもしれません。著者は13年間もインドの僧院で修行を積んできた詩人ですから、ぬるま湯に浸かっている私などには到底及ばない精神の深さを持っているようです。
 そんな深さに少しは近づけるかと思えるのが紹介した作品で、冒頭に置かれていました。この詩集の目指すところをまず示した、と言っても良いでしょう。「新しい西」というのは何を指すのか、詩集全体を拝読しても掴まえきれませんでしたが、その意識で何度か読み返せば少しは糸口を掴めるのかもしれません。「洋の東西を一つの器に注ぐは/愚の骨頂」というフレーズは重要な鍵だと思います。まさに「新しい光包まれ」た新しい体系を感じさせる詩集です。



  長岡昭四郎氏著ランボオ消ゆる
    ranbo kiyuru.JPG    
 
 
 
 
2003.10.25
東京都板橋区
プラザ企画刊
非売品
 

    高橋さんの詩論は難解だと言われ、詩は面白くないと言われながらも、倦むことな
   く執筆活動を続けたのは、戦前、昭和十六年に発行した『現代日本詩史』においてす
   でに完成された詩論の展開であり、それを基礎にした作品行動であったのである。
    詩は文学の工作機械であると言い、文学の文学であると言った。最初に疑問として
   提出した行の立て方という形式の問題を重視し、形式が内容を決定すると断言した。
   『思想詩紗』はそのための大衆化の範例だといった。行と行を対立させ、聯と聯を対立
   させる書き方を詩を創る方法論とした。
    こういう論理はいかにも形式的にみえるが、何の考えもなくただ行わけ散文を書い
   ている人の詩(この中には小説の筋書きにも劣るようなものから、一応世間一般に通
   用するようなものまであるが)とは違って、はっきり説明できる、また読んで理解で
   きる行の立て方になっているわけである。前者(一般の詩)は感ずる詩(感覚型態詩)
   であるのに対し、後者の前衛詩は考える詩(観念型態詩)といった。

 「前衛詩人高橋玄一郎と連句」というエッセイの中の一文です。行分け詩についての高橋玄一郎の詩論の紹介の部分ですが、「詩は文学の工作機械である」という言葉に注目しました。文学が完成された機器・設備であるなら詩はそれを造る工作機械(マザーマシーン)であると捉えて良いと思います。これは非常に判りやすい比喩ですね。
 機器・設備を造るマザーマシーンなら、完成された製品以上に精密で繊細であることが必要なのは工業の常識です。マザーマシーンを造る企業は限られています。難しいものですから余程の技術がないと造れません。詩の難しさの本質が判った気がします。座右の銘とすべき言葉でしょう。



  詩誌『コウホネ』14号
    kouhone 14.JPG    
 
 
 
 
2003.10.30
栃木県宇都宮市
コウホネの会・高田太郎氏 発行
500円
 

    ツルボの花    星野由美子

   秋草が風にゆれる径沿いに
   淡い紫色の穂花をつけた
   ツルボがつんんつんと顔を覗かせている
    ―― 懐かしいねえ
   そう咳きながら母は腰をかがめる
   残りの生を灯すそのからだを
   そっと支えながら私も歩みを止める
   ユリ科なのに何の華やぎもみせない野の花に
   山合いの里で無心にたわむれていたであろう
   遠い日の母の姿をそこにかさねた

   その母が逝って三とせ
   変わらぬ控えめさでこの秋もツルボは咲いた
   なにげなく小花のひとつをみつめると
   野菊を想わせる六枚の花びらが
   星のかたちに端正に見ひらいている

   余りある厳しさを抱えながら
   すこしの素振にも見せず
   母は そのいたみに耐えつづけた
   死者として受け入れなければならない
   喪った刻がみせる日常のなかの酷さ

   しかし
   母と私とを繋ぐ至福ともいえる記憶たちが
   小さな浮島の群れとなって寄り添いはじめた
   この世に現れる象
(かたち)のすべてを映し
   それらを等しく包みこむ
   水という深いまなざしにかこまれながら

   いま
   母は あまねく私の周りに在りつづける

 「ユリ科なのに何の華やぎもみせない野の花に/山合いの里で無心にたわむれていたであろう/遠い日の母の姿をそこにかさねた」美しくも哀愁のある作品で、「いま/母は あまねく私の周りに在りつづける」という最終連が強い母娘の絆を感じさせます。「残りの生を灯すそのからだ」と記す娘の思いはどんなだっただろうと、読者である私の思いもつながってていきます。「変わらぬ控えめさ」の「ツルボの花」と「余りある厳しさを抱え」た母上との間には、本当は無限の隔たりがあったろうに、それだからこそ重なったイメージがあるのだろうと納得した作品です。




   back(11月の部屋へ戻る)

   
home