きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり

  kumogakure  
 
 
「クモガクレ」
Calumia godeffroyi
カワアナゴ科

2003.11.24(月)

 振替休日。シャンソン歌手・金丸麻子さんのソロコンサートに行ってきました。築地本願寺の隣にある「兎小舎(うさぎごや)」という、それこそ小さなライブハウスですが、雰囲気は良かったですね。満員でも50人ぐらいですかね、もちろん満員でした。
 前回行ったのはSKDで、ラインダンスは良かったけどソロじゃなかったですから、ちょっと不満がありました。それが今回は金丸さんだけのライブ、大いに楽しみました。

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歌う金丸麻子!
 
 
 
 

 ちょっと写真が大きくてごめんなさい。これが一番ハデな衣裳でした。でも、彼女、いくつになったんだろう? 知合って7年ぐらいになりますから、彼女も7年トシを食ったことになります(^^; でも、全然変りませんね。私は、47歳だったのが54歳。うーん、違いは大きい。
 7年もコンサートに通っていると気楽になります。彼女は劇中劇で観客に向って「やってられないわ」と言いました。私は思わず「見てらんねぇヨ」と反論しまいました(^^; 観客には大受けだったんですけど、ちょっとムッとされてしまったかもしれません。終って、出口で謝ったら許してくれましたが…。次の案内が来なかったらオシマイだな。口は災いの元と反省しています。



  西岡光秋氏詩集アルバムの目
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2003.12.1
東京都新宿区
土曜美術社出版販売刊
2000円+税
 

    アルバムの目

    親しかった死者たちの目をアルバムに貼っていると 一つひとつ
   の目が光を帯びてきてアルバムからとび出してくる 目はいつのま
   にか部署違いの声帯を持っているではないか ただ父の声も祖母の
   声もあまりにも遠い日に耳にして 今ではその声の余韻の記憶すら
   あやしくなっている 首をかしげていると父も祖母もかなしげな色
   の目をしてアルバムの中にひっそりと引き返して行く

    おお 北一平 赤石信久の低音かつどこかしわがれたような声は
   新鮮なひびきである 伴勇 西條嫩子 三越左千夫のそれぞれユニ
   ークな高音も生きいきしている どこか遠慮勝ちにかれらはぼくに
   近寄ってくる 初老のそして老齢の手のひらをぼくの肩におく 飲
   もうよ 飲みましょうよ と声をそろえていう 二日酔いだからあ
   すの晩がいいあすの晩にしてくださいよというと おまえも衰えた
   な そうだな そうだよなとぼくをあわれむ目線をそっとそらす

    秋灯火死者たちの目の写真貼る と句をひねっていると死者たち
   の目が棘の鋭い痛みをともなっていっせいにぼくを凝視する そろ
   そろもうくたびれたのではないか こちらにやって来たいのかいと
   無言の語りを語っている ぼくの拒否のちからは弱々しい 生き継
   いで落葉の夜をひとり酌む とひねったところで 死者たちの目を
   大小のアルバムに貼るために人は年をとることを思う アルバムは
   いつも机上に開かれている ぼくの目が貼られるその時まで開かれ
   ている

 全編散文詩の詩集で、紹介した作品は詩集のタイトルポエムです。制作は1975年から2003年までの28編で、そのうちの半分を1980年代の作品が占めていました。1980年代と云うと著者50代、現在の私の年代になります。それを考えながら読み進めて、彼我の差異が大きいことに愕然としましたね。
 作品に登場する「北一平」さんは一度ご挨拶させていただいただけですが、「赤石信久」さん、「伴勇」さんには懇意にしていただいて、懐かしいお名前です。「秋灯火死者たちの目の写真貼る」「生き継いで落葉の夜をひとり酌む」という句にも惹かれます。人生の無常などという底の浅い言葉ではなく、もっと深い哀しみと安堵、それを感じる詩集です。



  詩と評論誌『日本未来派』208号
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2003.11.15
東京都練馬区
日本未来派・西岡光秋氏 発行
800円+税
 

    こけら落し    平野秀哉

   こけらを漢字で書くと「柿」
   「」とは微妙に違うんだ

   こけらの旁
(つくり)は一と冂を縦棒が一本貫く四画
   「左右に剥ぎとる」という意味だ

   かきの旁は亠に巾で一画多い五画
   発酵させて上澄みを掬う柿渋の採取法から作られた

   こけらは檜
(ひのき)などの木材を薄く剥いだ板や削り屑のこと
   「こけら葺き」の材料として使われた
   完成した屋根や足場についた削り屑を払い落したのが
   「こけら落し」
   芝居小屋の落成を祝う初興行が語源となった
   現在では施設のお披露目の行事を広く言う

   そうかあ「柿
(こけら)」と「(かき)」とは異なる字だったんだ
   でもいまでは旁(つくり)は混同されると辞書にあった

   七十歳にしてまたひとつ悧巧になった
   「古稀のこけら落し」なんて洒落てみようか

 これは私も知りませんでした。確かに「いまでは旁は混同されると辞書にあった」とある通り、広辞苑(第二版補訂版第五刷・1980年発行)でも電子版の第四版でも区別されていませんでした。そこに目をつける作者の見識に脱帽です。最終連のオチも極まっていて、作品としてもおもしろいですね。
 の字は当然パソコンの文字セットには存在せず、「文字鏡」という特殊なソフトを使って表現してみました。ルビも使えず、止む無く新聞方式としておりますのでご了承ください。



  詩誌『地点』68号
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2003.11
鹿児島県名瀬市
進 一男氏 発行
300円
 

    夏 せせら笑った 顔    進 一男

   あの夏の 何と せせら笑った顔
   忌まわしい日々の中の 忌まわしい日の
   あの せせら笑った顔の その顔

   ようやく病室を出て 外を歩く気になっていた頃 その日 彼は中
   庭の洗面台の前に立っていた 突如警報もないまま 裏山のすぐ上
   に 超低空で 浮かぶように一機現われ 滅多矢膤に機銃掃射して
   きた 彼はコンクリートの水槽の陰に身をひそめた そこは機から
   死角になっていた 機が頭上に来た時 彼は機内の若い男の顔に出
   会った 若いその男はせせら笑っていて せせら笑いながら 病室
   も何も 所かまわず射ちまくり射ちまくっていた 悠々として人を
   殺すのは まさに 快楽なのであろう そのせせら笑った顔は お
   そらく殺人ゲームでも楽しんでいる気分だったに違いない 男は尚
   も射ち続けていた 彼は機が旋回して 再びやってくるものと思い
   別の場所に移っていた しかし機は現われなかった 病室のことも
   気になって しばらくして彼が何気ない調子で(それより他にどう
   仕様があったか)病室に戻ると 病室は多少散らかってはいたが異
   状はなかった お前てっきりやられたなと思ったよと 仲間の一人
   がこれまた何事もなかったように言った 彼の周囲では 生も死も
   また 何事でもなかったような頃のことだ

   あの夏の 何と せせら笑った 顔
   忌まわしい日々の中の 忌まわしい日の
   あの せせら笑った顔の その顔

 今号は「進 一男 小詩集」として「やがて来る飛翔の時を前にして(3)」という総タイトルのもとに11編の作品が収められていました。紹介した詩は、他とちょっと傾向が違うのですが、非常にリアルで惹きつけられた作品です。戦争というものを具体的にイメージすることができます。湾岸戦争以来、戦争とは匂いも風も感じることがなくテレビの中のものという感覚になってきましたが、こういう作品に出会うと、それは違うぞと思いますね。こんな時代だからこそ、詩人の感覚で描かれた作品が必要と思った次第です。貴重な作品に出会いました。



  詩とエッセイ誌『千年樹』16号
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2003.11.22
長崎県諌早市
光楓荘・岡 耕秋氏 発行
500円
 

    裏庭    岡 耕秋

   アメリカフウの大樹が
   脱ぎ捨てる夏のよそおい
   一面にうずたかく散り敷いた
   大きな黄葉紅葉

   掃くことをせず
   落ち葉のように静かな日々を
   書に倦んだ目を
   その上に休ませている

   通路の珊瑚樹の垣は厭われて
   ブロック塀にかえさせられた
   その塀の向こう側では
   ごみとしか呼ばれなくなった落ち葉

   落ち葉焚く煙も香りも
   悪臭だ煙害だと咎め
   濡れ落ち葉などと卑しめるこの頃

   せめて落ち葉
   朽ち果てるまでの長くはない時を
   思い切りくつろぐがよい

   夏の輝きや風雨の激しさを
   誇りをもって思い返すがよい
   だれ一人知るものがなくとも
   意味のある確かな日々であったはずだ

   この季節
   木洩れ日が刻一刻と領域をひろげ
   白いガーデンテーブルが
   ひときわ精彩をおびる

 精神的に「落ち葉のように静かな日々を」過すことが出来るから「だれ一人知るものがなくとも/意味のある確かな日々であったはずだ」と見ることができるのでしょうか。たいして大事なことがあるわけでもないのに、毎日を忙しぶって暮している私などにはハッとさせられる作品です。「ごみとしか呼ばれなくなった落ち葉」にさえ、こういう接し方をしないと人間は縮んでいくばかりだな、とも思います。ものの見方を教えられた作品です。




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