きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり

  kumogakure  
 
 
「クモガクレ」
Calumia godeffroyi
カワアナゴ科

2003.11.26(水)

 18時から日本ペンクラブの「ペンの日」だったんですが、行けませんでした。出張で麻布まで行っていて、仕事は17時終了予定でしたから、それから向っても充分間に合うなと思っていたんですけどね。同席した関連会社役員との懇親会が設定されていて、それに同席を求められました。断ったんですけど、ダメでした。
 でも、懇親会の場は良かったですよ。中華料理店で、中国の雑技を見せてもらいました。女性たちの身体の柔らかさには驚きましたね。仕事上の酒でしたが、集まったメンバーは関連会社の人たちを含めて気心の知れた人ばかりです。もちろん個人で呑むような訳にはいきませんけど、仕事上の酒の席としては気楽な方です。「ペンの日」の方は残念だったのですが、それに代るものとしては満足な懇親会でした。



  中井ひさ子氏詩集『動物記』
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2003.11.24
東京都新宿区
土曜美術社出版販売刊
2000円+税
 

    ビルのかげで

   西新宿の角を二つ曲がると
   ビルのかげで
   ペンギンたちが
   おしくらまんじゅうをしていた

   薄い日差しの中
   押されてみたかったから
   そっと かがみこんで
   仲間に入った

   ペンギンの背中が
   叙情的だなんて
   知らなかった

   時々
   嘴
(くちばし)があたると
   私の背中の
   つかみどころのない意志が
   ビルの壁をのぼり出すので
   あわててとめた

   押しながら
   押されながら
   かたむいた空を
   見上げ
   思わずほどけた
   大きな声に

   小さな重みと共に
   ペンギンたちは
   右へ左ヘ
   ビルのかげに
   消えた

   西新宿の三つ目の
   角に向かい
   歩きだす

 おもしろい作品ですね。このような作品が33編収められており、紹介したのは詩集冒頭の詩です。鑑賞のし方は人それぞれで良いと思うのですが、著者はどう考えているのでしょう? あとがきに相当する「渋谷の鬼 ――あとがきふうに」では次のように述べています。

    以前は心の中を見詰め、心を解放しようと詩を書いていた。最
   近は心を見詰めることに疲れたのか、顔を上げ外に飛び出すこと
   が多くなった。ふと見ると、歩道の片隅で象が泣いている。買い
   物に行く途中の獏に出逢った。シマウマがブランコに乗っている。
    これを詩に書かない手はない。詩もとらえがたい生き物である
   と実感しつつ、彼等との出逢いを表すのは詩以外にはないという
   思いでペンを走らせる。
    気付くと心が解放されていた。

 「詩もとらえがたい生き物である」という視点で読むと作品の深部へ入っていけると思います。「気付くと心が解放されていた」という観点も重要ですね。著者の第2詩集ですが、前詩集から大きく脱皮・進歩した詩集だと思います。



  詩誌『すてむ』27号
    stem 27.JPG    
 
 
 
 
2003.11.25
東京都大田区
すてむの会・甲田四郎氏 発行
500円
 

    かまぼこと海    松尾茂夫

   北欧の水産加工会社から
   蒲鉾の見本数種とレシピがほしいと手紙が届いた
   帰国した駐日大使が旨かったから
   こちらでも造れと言ったのだという

   見本は近在の老舗のかまぼこ店
   数軒をまわってそろえたが
   おおまかなレシピを書く段になって
   ハタと行き詰まった
   日本近海の魚は欧米の海にはいない

   鯛を和英辞典でひくと
    <鯉科の海水魚> とか <サバに似た魚> などとあって
   そのものズバリのボキャブラリーはない
   当たり前のことをそのとき初めて気づいた
   英和辞典をひくとサーディンもアンチョヴイも鰯だが
   日本近海の鰯はイワシで
   北海のサーデインでも
   チリ沖に群がるアンチョヴイでもないのだ

   一衣帯水といって世界の海は
   どこまでもつながっていると思っていたが
   海のなかにも
   大陸や半島や孤島というように
   見えない壁とか境界があって
   魚たちもどこかの海域で民族紛争してるのだろうか

   海は陸地をつなぐ広い無料道路だと人間は信じているから
   好き勝手に巨大タンカーや貨物船が
   魚や珊瑚や昆布の頭上を往来する
   寄港地で荷揚げをすると
   空船はバランスを保つ錘
(おもり)に港の海水を汲み込んで
   積荷の待つ次の寄港地へ向かう
   水といっしょに呑み込まれた小魚や昆布やプランクトンも
   船旅のヒッチハイクだ
   そして見知らぬ港で放り出される
   アメリカのクラゲが黒海で
   日本のヒトデがタスマニア水域で
   カスピ海のハゼがミシガン湖で繁殖して
   海域の貝や魚卵を食い荒らしているらしい*

   缶詰に入った自称かまぼこの試作品を
   ぼくは何度も食わされた
   粘りのないただのフィッシュ・ケーキだ
   諦めさせるのに一年余りかかったが
   そのうち日本の鯛やチヌやグチも
   船に揺られてヒッチハイクして
   北海で繁殖するかもしれない
   あれから三十数年経つが
   ぼくはまだ北欧産のかまぼこには出会っていない

          * 国際航行する貨物船が船のバランスを保つために
          積む水をバラスト水という。年間 100億トンが越境
          移動する。1日に3千種の水生動植物が移動してい
          ると推測されている。

 「北欧産のかまぼこ」はやはり無理なんですね。「日本近海の鰯」でないと蒲鉾にならないというのは、文化の何たるかを暗示しているように思います。「バラスト水」による水生動物の移動は先日もTVで報じられていましたが、これも大きな問題になるのでしょう。「海は陸地をつなぐ広い無料道路だと」私も考えていましたが、それを改めなくてはならないとも思いました。考えさせられる作品です。



  詩誌hotel第2章9号
    hotel 9.JPG    
 
 
 
 
2003.10.20
千葉市稲毛区
hotelの会・根本 明氏 発行
500円
 

    流砂    海埜今日子

   指がうつろになってゆく。とおのく声が波うって、しずんだ木陰に
   まぎれるようだ。ひらいた手のまま後ずさり、ちかい悲鳴を聞きた
   がる、かれはとても接していた。のがれかけては樹々のあいまに、
   ひとかけの。砂のような色だった、うんざりするほどつもっては、
   男のなかで割れてゆく。
   交互にあたたかいめまいだった。ちかしい声にくいこむようにして、
   ゆくえがみつめあっていたのだとどうしていえよう? ちりぢりに
   なった重さがあった、ゆくえのうがたれた指だった。なぞるように
   してまさぐりながら、よぎった女がさました眼。まぶたのあいだに
   わたしは眠り。
   あかるい葉脈がはがれてゆく。かわいた声がむせぶようだと、あな
   たはうつむき、いつかのうごきをちらすのだった。綱目のような誤
   算がある。ふりつもってはゆきずりに、ふれえたことが取捨だった。
   くらさのなかで幾度も間違え、破片を手にとり、笑うこと。選んだ
   ことが待っていた。あせばむよりもゆれている、指の昨日に大差は
   ない。
   くらんだ先からあふれるもの。飽和すれすれに夜をかわし、かの女
   は砂をむさぼるだろう。つかんでは、中途であわさる糸口に、まき
   こまれ、まきこんで。枝のひとつが痛みだった、まばゆいはどのか
   さぶただった。木漏れ日のようにちらめく眼裏。わたしは流木をさ
   わぐものだ。
   満ち引きにたゆたう音だったと。薄眼をひらいた余韻から、つなげ
   ては、穴のまわりをめぐること。かれらはしんそこ接点で、べつの
   時間にころがるようだ。ぬれながら、とおまきに。こすれたものが
   退いてゆく、かれのすきまにふれながら、わたしたちは角度をたも
   つ。視線のさきからにじむもの。目覚めがうつろになってゆく。ち
   りちりと、まぶしい指でわたしは選んだ。

 「流砂」のイメージがどんどん広がっていくのがおもしろい作品です。「かれはとても接していた」「わたしは流木をさわぐものだ」などの語法も作品として成功していると思います。流砂が指を流れるイメージ、これは人生そのものなのかもしれません。作品からは男と女につい限定してしまい勝ちですが、もっと深いところを感じ取ることができます。「かれらはしんそこ接点で、べつの時間にころがるようだ」という詩句に私はそれを強く感じます。朗読するとこの作品の良さがもっと引立つようにも思います。




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