きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり

  kumogakure  
 
 
「クモガクレ」
Calumia godeffroyi
カワアナゴ科

2003.11.30(日)

 何年か振りで、家族3人で上野に行って来ました。特に目的があったわけではなく、明日で使用期限が切れてしまう新幹線の往復切符が人数分あったので、もったいないから上野にでも行ってみるか、ということになったものです。出張で支給される往復切符って、意外と貯まってしまうものなんですね。

 東京国立博物館でダイヤモンド展をやっていて、娘と嫁さんはそちらにご執心、私は「伊能忠敬と日本図」展に夢中になって、相変わらずのすれ違い家族でした(^^; アメ横も行ってみたいと云うので行きましたけど、私はまったく興味がなく、娘たちが買物をしている間はインターネットカフェでのんびりしていました。うーん、この家族の将来が心配だなぁ。でもまあ、義務は果たしたかな?



  詩誌『象』111号
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2003.11.25
横浜市港南区
「象」詩人クラブ・篠原あや氏 発行
500円
 

    ねじ    平野一夫

   余裕はなかった
   まったく突然
   夜の繁みから飛びたったのは
   鳥だったか
   それとも少年の日のこだまだったか

   向い側の椅子から
   ぼくに話しかけていたひとが
   急にいなくなったのは
   ぼくが痩せていたせいか

   坐っていたので
   目の表面に汚点があるので
   いちにち いちにち
   終ってゆく速さを
   知らなかったとは

   やめよう
   ぼくの欲しいものは
   いつもひとつだったが

   なぜか点のようになろうとするひとにも
   鳥にも
   少年の日のこだまにも
   ねじが刺さっていた

 今号は7月に73歳で亡くなった平野一夫氏の追悼号になっていました。紹介した作品は1978年刊行の詩集『ねじ』のタイトルポエムです。お会いしたことはありませんでしたが、感覚的な作品を書いた詩人だったのだなと思います。第2連、第3連に特にそれを強く感じます。
 平野氏は『象』創刊からの同人だったそうで、追悼詩、追悼文から遺された同人の落胆が伝わってきました。ご冥福をお祈りいたします。



  文 徳守氏詩集『素描』
    sobyou.JPG    
 
 
 
 
2003.11.30
東京都新宿区
土曜美術社出版販売刊
2000円+税
 

    今日

   絶壁から
   転げ落ちる 岩塊
   きょうは クロフネツツジが 見た

   その クロフネツツジが しおれ 枯れてから
   千年を経た きょうは
   その 絶壁の 松の木が 見た

   その 松が ひからびて 枯れて
   また 千年 過ぎた きょうは
   枝ぶりのよい枝もとめてきた 鶴が見た

   その 鶴が 姿を 消し
   また 千年の きょう
   遠い 海の果てより やってきた 鴎が見た

   その 鴎が 去って
   また 千年の きょうは
   絶壁から 転がり落ちている
   岩塊自ら おのれを 見つめつつ

 著者は韓国ソウル在住の弘益大学名誉教授だそうです。1928年生まれ。1950年の韓国戦争で負傷、とありますから日本で言うところの朝鮮戦争に出征したようです。
 紹介した作品は、その視点の長さに驚きました。「クロフネツツジが」「松の木が」「鶴が」「鴎が」と畳み掛けてくるのですが、その間にはいずれも「千年」という時間があります。その圧倒的な時間を思いながら読み進めていくと、段々と己が小さくなっていくのが判ります。最終連が「岩塊自ら」であることも意味深いと思います。韓国現代詩を代表するような詩集なのかもしれません。



  詩誌『烈風圏』2号
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2003.11.10
栃木県下都賀郡藤岡町
烈風圏の会・本郷武夫氏 発行
非売品
 

    脱衣婆    深津朝雄


   脱衣婆は 死人を一糸纏わぬ全裸にし 死化
   粧をも剥ぎ取り 罪の重さを計るという


   寺の本堂の隅に  脱衣婆は  暗がりと沈黙
                           げんだら
   の沈んだ  床の冷えを体温として  乾陀羅
   (ガンダーラ
)の歌の淀みを横に据えて 戻っ
   て来た者はいない九泉の入口に 陰険な翳り
   の 植物の顔をして座っている 灰色の頭巾
   を被り耳を隠して 俗世の雑貨の音は一切聞
   かない 頭巾はさらに肩を覆い 寂蓼の衣と
   して床に這わせている 右腕を上げ 人差し
   指が虚空を指している 冥府の苦しみを暗示
   するかのように その指には指紋がない


   送り出された死人の 凍えた冷たさが残って
   いる敷石の上に 私は 仰向に寝かされた
                             よみ
   ここには死者の人格はない 遺族たちが黄泉
   の国の旅に 困らぬように着せてくれた 白
     かたびら
   の椎巾 手っ甲脚半 下着までが脱ぎとられ
   る 脱衣婆は 横たわる肢体を 日の奥に青
   い火と 水を光らせそ眺めまわす 思考の封
   印された頭  笑えない顔  死の錠前に堅く
   締められている胸 痩せた腹の思想 精系の
   切れた陰茎 ながい歳月ここの死の場所に向
   かって歩き続けて来た足裏まで 時を搾りこ
   むように凝視する  眼の奥の青い火は  死
   者を送る儀式の灯明か 光る水は三途の川の
   滴りであろう (三途の川は 死んで七日目
   に渡る川 川のほとりに脱衣翁と 脱衣婆の
   二鬼がいて ここでも亡者の衣を奪う)


   罪の重さを計り この亡者を十界のどこに送
              み
   るか 脱衣婆が診るのは死体ではない 葉の
   ない生きた木の枝に死装束をはじめ 初着か
   ら 生涯着古したすべての着物を掛け その
   着物の揺れる具合で罪を決める 過去の貪欲
   の生理をうしろ手に隠しても 来歴のすべて
   が着物に染みついていて 脱衣婆にたやすく
   暴かれる


   生の生涯は百年と限りがあるが 冥土は永遠
       おんりえど  ごんく
   だ 厭離穢土 欣求浄土を願う (穢土の汚
              いと
   れた苦しみから厭い離れて 浄土の悪道のな
   い菩薩の住する国に往生を願う)しかし 脱
   衣婆の仏果の価値観によって判定される 凡
   人であったとの自負は役立たない 地獄 餓
   鬼 畜生の迷界に突き落とされる恐怖に 体
   は硬直する 寒い

 仏教のことはほとんど知らないので「脱衣婆」というのは驚きました。「脱衣翁」というのもおもしろいですね。「その着物の揺れる具合で罪を決める」というのも具体的で、先祖たちはその具象に慄いたのだろうと思います。また「凡人であったとの自負」は、窮地に陥ったときの人間の逃げ口上としては常套句のようで、これも見透かされているようでおもしろいと思います。こうやって考えると、仏教の始まりから現在まで、人間は何も変っていないなと改めて認識します。
 インターネットの日本語処理の未熟さから、ルビのある行はちょっと見難くなってしまいました。ご海容ください。



  ○おれんじゆう氏詩集『おれんじいろのそら』
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ポエム・デュバーンNo.013
2003.12.1
大阪市北区
竹林館刊
800円+税
 

    

   いがに護られて育った
   栗の子四つ
   肩を寄せ合って
   大きくなった子供に
   押し広げられた
   いがの口は
   日一日と開いてきた

   セピア色の子供達
   秋の風に頬をなでられ
   覗いている

   さあ一人立ちだよ
   四つは落葉の上に
   ころげ落ちた

   いがは
   落葉と共に
   朽ちてゆく

 ようやく私もこの心境が判る年齢になったと思います。若いうちは「いが」が外ではなく内に向いていないかと気になったものですが、そんなことはないと気付くまでにずい分と時間を喰いました。今は「親」として「落葉と共に/朽ちてゆく」ことにも納得しています。「セピア色の子供達」は外ばかりを「覗いている」ものなんですね。それを「護」って「育」てて、己は「朽ちてゆく」ことは、生物として自然なことなのですけど、ちょっと淋しい、ちょっと嬉しい、そんなことを感じさせてくれる作品です。
 詩集全体としても著者のあたたかい視線が随所に感じられ、心を洗われる思いで拝読しました。




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