きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり

  kumogakure  
 
 
「クモガクレ」
Calumia godeffroyi
カワアナゴ科

2003.12.1(月)

 関連会社に貸与している機械の修理をしなければならなくなり、修理をしてくれる会社と打合せをしました。その機械の技術的な援助は技術課が、管理全般は私が担当していますので両者で臨みました。修理をしてくれる会社は、20年ほど前に私も付き合ったことのある会社で、当時1000万円ほどの画像処理装置を導入しました。当社でも初めての導入だったはずで、担当した私はずいぶんと気を良くしたことを覚えています。そんな先入観で臨みましたから、気楽で、話もどんどんと進みました(^^;

 修理会社の方で事前に関連会社に調査に行ってくれることも決まり、その日程も確定しました。行くと云っても山形ですからね、商売とは云えその熱意には敬服しました。修理当日は当然私も立会いに行きますが、これで安心して行けるというものです。こういう前向きな会議というのは、終ったあともすっきりとしていますね。



  詩誌『しけんきゅう』141号
    shikenkyu 141.JPG    
 
 
 
 
2003.12.1
香川県高松市
しけんきゅう社 発行
350円
 

    ねったいや    秋山淳一

   ぶわぶわのたいよう
   とけだすガラスまど
   みずのそこにしずむ
   まちとねったいぎょ

   はだかのマネキンと
   はだかのしょうねん
   つめたいほほにキス
   キスしたのはどっち

   どん
   うちあげるはなびは
   なみだににじむはな
   どん

   およぎだすにんぎょ
   ゆかたのしょうじょ
   イルミネーションに
   らんぶらんぶらんぶ

 「ねったいや」とはもちろん熱帯夜のことですが「ぶわぶわのたいよう」という言葉が良く現していると思いますね。そこから「ねったいぎょ」「にんぎょ」と言葉遊びのように繋がっていくのも面白いです。3連目の「どん」が微妙にリズムを崩しているのも効果的です。最後の「らんぶ」の繰返しは乱舞でしょうが、これも「ぶらんぶらん」とも読めて、おもしろい効果を出していると思います。ひらがな主体のおもしろい作品で、楽しみました。



  季刊文芸同人誌『青娥』109号
    seiga 109.JPG    
 
 
 
 
2003.11.25
大分県大分市
河野俊一氏 発行
500円
 

    父と子/日豊本線(1)    河野俊一

   遠い彼岸のようなホームに
   東京からの寝台列車が到着する
   末尾の車両から
   最後に降りてきたのは
   親の匂いの男と
   小学生の香ばしさの少年
   ふつうの日なのに
   なぜ少年は
   ここで父に寄り添って歩くのか
   次は
   私こそが列車に乗る番だ
   昨日は坂道を下り切った所で
   鈴木さんの奥さんによく似た人から
   明日は早いですね
   と声を掛けられていた
   十時二分発が
   早いかどうかわからないが
   私は書類と着替えを抱えて
   傘の買い替えのことを
   考えていた
   急な出発が決まって
   ジャズのコンサートはキャンセルした
   鈴木さんの奥さんに似た人も
   そのことを怒っていたのかもしれない
   指定席に座るとすぐに
   検札がやってきた
   斜め前の紳士は
   指定券を持たずに居座っているので
   きっと車掌から
   たしなめられる
   そういう人は
   どこにだっている
   毎日通過する列車のようにだ
   あの少年は
   東京でしかできない治療を受けて
   還ってきたのではないのか
   だから父親が
   あんなに濃密に
   湿るのだ
   父親の誰もが
   あのように膨らむはずがない
   走り始めた列車は硬い音で
   あいづちを求めるばかりだ
   静かになったこの車内で
   おとなたちは帰る所を失って
   みんな眠ってしまった

 「日豊本線」にまつわる詩が(1)(2)と2篇あって、紹介したのはそのうちの(1)です。ちなみに(2)は「夢の中を」と題されていて(1)の続編の形をとっています。
 紹介した(1)の「父と子」は親子の姿がよく描けているなと思いました。特に父親は「親の匂いの男」「あんなに濃密に/湿る」「あのように膨らむ」と形容されていて、作者の人間を観る眼の確かさを感じます。構成上も「鈴木さんの奥さんによく似た人」や「指定券を持たずに居座っている」「斜め前の紳士」が出てきて、列車の中の風物と先ほどから考えて続けているのであろう「父と子」がうまく重なって、列車という一種独特の雰囲気を出していると思います。最後の「みんな眠ってしまった」も奏効していますね。



  詩誌『青い階段』73号
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2003.11.20
横浜市西区
浅野章子氏 発行
500円
 

    手袋    浅野章子

   「この間はどうも」と猫がひょっこり現れた
   「いいえどういたしまして」追い出したのは
   わたしだから少しやさしい声で返事をする
   ほんとは猫なんて言っては失礼な間柄なのだ
   オードリー・ヘプバーンの映画「麗しのサブリナ」から
   ナナとつけた名前があるのだ
   ナナは八年ほど前 車にひかれて亡くなり
   この春逝った夫とともに
   涙で送った猫だ

   食卓にひとり座る
   ナナが隣にきている
   ストッキングに爪を立てた
   あれ以来の来訪だ

   何か手に持っている
   茶色の皮手袋
   黒びかりしている
   「それパパのじゃない」
   手を通すとオートバイのハンドルの匂い
   どこかでエンジンの軽いひびき
   胸がきゅんとスピードを増してきた

   めがね 時計 免許証 カード 診察券
   そして二つの鍵 折りたたみ財布
   ナナはこれからも次ぎつぎと抱えてくるだろう

   「この前のお詫びです」とナナ
   両方の手袋を置くとふりかえりながら
   「今度来るとき迄に『ねこ元気』を買っておいて
   ください」
   「いまテレビのCMでやってるやつですよ」

 死んだ猫の「ナナ」が持ってきたという「茶色の皮手袋」。「手を通すとオートバイのハンドルの匂い」がするというフレーズに実在感があります。そして「ナナはこれからも次ぎつぎと抱えてくるだろう」というフレーズに接すると「この春逝った夫」に対する「わたし」の思いが痛いほど伝わってきます。最終連はそれを振り払うかのように明るいタッチになっていますが、それがかえって「わたし」の哀しみの深さを物語っているようで、深い感動を覚えました。




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