きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり

  kumogakure  
 
 
「クモガクレ」
Calumia godeffroyi
カワアナゴ科

2003.12.4(木)

 弊社が社員教育を依頼しているシンクタンク日本支社の創立記念式典がキャピタル東急であって、案内状が来ていたのですが、やはり行けませんでした。他社のお祝いより目の前の仕事、ということですかね。私も最近その分野の仕事に従事していないので、ちょっと熱が冷めていることも事実です。社員教育を重視しない会社の将来は危ういというのが持論ですけど、その分野だけが社員教育の全てではなく他の分野はちゃんとやっているようですから、まあ、安心はしていますけど…。しかし、そんな会社同士のつき合いにもちゃんと出られるような余裕は持ちたいものです。



  個人誌『むくげ通信』19号
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2003.12.1
千葉県香取郡大栄町
飯嶋武太郎氏 発行
非売品
 

                            パクヒジン
    ハングルと漢字の永遠なる混用のために    
朴喜

   3

   ここに 韓・中・日の三国の
   明らかに
   それぞれ自国の言葉しか知らない
   三人の青年が一ケ所に集まった。

   さて これを見てみろ
   中・日の二人の青年は
   漢字を媒介にすぐに意思が疎通した。
   それほど深刻な表情も見せずに
   会心の微笑みさえも浮かべていた。
   互いに賛嘆の視線も投げかけて
   友愛を確かめる握手も交わした。
   韓国の青年だけが
   話しができず一人気を揉んでいる……
   韓国の青年だけが のけ者……
   彼は漢字を知らなかったから。
   中・日の二人の青年は
   丁寧に目配せして
   又は指で頭を指し示して
   韓国の青年は頭が空っぽだから
   相手に出来ないという断定をした。

   韓・中・日の三国は
   古来漢字文化圏に属していた。
   ところがある日
   唯一韓国だけが
   その文化圏から離脱を宣言した。
    <ハングル専用> の間違った固執で
   手本のない愚民化を成し遂げる有様。
   手本のない鎖国を招く有様。
   極東の名前をつけた三頭の虎の内
   二頭は相変わらず虎であるが
   一頭だけが密かに猫に変わってしまった。
   文化圏の外の国際孤児に
   転落してしまったのだ。
   おお 気の毒な我々のハングル世代!
                     「韓国論壇(一九九一年六月号)」

 今号では「ハングルと漢字の永遠なる混用のために」というタイトルのもとに2〜4が載せられていました。ここではその中から「3」を紹介しています。
 ハングルは非常に合理的な言葉で世界中から評価が高いと聞いていましたが、実際に使っている人、特に言語を扱う詩人には評判が良くないことが判ります。「2」ではあらゆる辞書で括弧の中に漢字が添えられていると書かれており、確かにそれは不便だろうなと思います。それに「韓・中・日の三国は/古来漢字文化圏に属していた」わけですから、音は違っても意味は通じますね。もっとも中国は簡略化されてしまい、中国の石碑などの漢字は日本人の方が読めるとも聞いています。日本は日本でカタカナが氾濫して公用漢字も制限されていますので、一概に中国や日本が「手本」になるかは疑問です。
 いずれにしろ「韓・中・日の三国」とも何千年も続いた漢字文化を簡単に捨てていいものかと改めて考えさせられた作品です。



  アンソロジー『大宮詩集』26号
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2003.12.1
埼玉県さいたま市
大宮詩人会・飯島正治氏 発行
1300円
 

    炭鉱夫    ささき ひろし

   北国の短い夏に 涼を求めて
   海水浴臨時列車で訪れる
   黒いダイヤに命をかけた男たち
   眩しい太陽に 潮風に
   逞しい筋肉を晒した白い夏
   浜の少年は 地底の話をせがんだ

   エネルギー政策の突然の転換
   ヤマはつぶれ
   ダイヤは石っころとなる
   不器用な男たちは都会に散った
   ツルハシをふるう者
   ネクタイを締める者
   モグラの目をもつ男には
   地上の仕事は眩しすぎた

   あれから半世紀が過ぎ
   ――北の大地に還りたい
   ――粉塵の舞う炭鉱の街に
   男の遺言を叶えるために
   家族は廃墟と化したヤマに立つ

   男の灰は 冷たい北の風に舞い
   落盤事故で亡くなった仲間の眠る
   ヤマに還っていった
   紅い夕陽を背に
   墓標のようにそびえ立つ炭殻山
   解放された男の魂は
   閉ざされた青春の坑道跡を
   ひたすら駆け巡る

 なつかしい人たちを思い出しました。私は北海道生まれです。芦別にも住んで、福島県いわき市にも住みました。小学校4年生頃までのことですが、いずれも炭鉱の街です。そこで「黒いダイヤに命をかけた男たち」「逞しい筋肉を晒した」男たちに接しています。その後の「エネルギー政策の突然の転換」時には静岡県に来てしまいましたが、親戚には「炭鉱夫」も多く、「炭殻山」(ボタ山と呼んで良いと思います)は身近な風景でした。
 作品を拝読してつくづく思うのですが、このような作品は後世に遺す必要があるのではないでしょうか。戦争や戦後の混乱期は作者も私も体験していないけど「ヤマはつぶれ/ダイヤは石っころとな」ったことを知っている世代です。そこから見える「エネルギー政策」や「モグラの目をもつ男」の記録を遺す役回りの世代のように思うのです。
 詩・文学・文芸の、世代における役割を考えさせられた作品です。



  詩誌『布』18号
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2003.12.1
埼玉県戸田市
阿蘇 豊氏・他 発行
100円
 

    地獄谷    笠井 剛

   来る日も来る日も滅法な雪が降り
   そこら一帯の熊笹が
   凍てついた雪の下に圧し潰されてしまった
   雪面に近く木々の幹を留った跡が
   道しるべのように地獄谷の方へと続き
   幽かに水の音がする雪原の窪地に
   餓死した鹿が累々と散らばっていた

   雪を踏んで男たちがやって来て
   それぞれ目当ての鹿の首を切り落とした
   手馴れた仕草で角を掴んで担ぎ上げると
   来た道をよろめきながら帰って行った
   まとい付く死臭から逃れわれ先にと

   権現岳への夏道は地獄谷を巻いて
   向いの尾根に這い上がっている
   時たま
   魅入られたように谷に迷い込む男がいて
   突っ伏したまま白骨になる

 「地獄谷」という地名は比較的多く、例えば箱根の大涌谷も別名「地獄谷」と呼ばれていますが、概して荒涼としている様や硫黄の臭いなどから付けられていると思っていました。しかし、紹介した作品のように「餓死した鹿が累々と散らばってい」る処もあるんですね。「権現岳」とは何処か地図で探してみましたら、山梨の権現山が該当するのではないかと思います。今はともかく昔は「来る日も来る日も滅法な雪が降」って「鹿」もいたのかもしれません。そんな想像をしながら作品を楽しみました。そして圧巻は「魅入られたように谷に迷い込む男がいて/突っ伏したまま白骨になる」というフレーズですね。そんな「地獄谷」なら「魅入られ」る気持が判るような気がします。



  隔月刊詩誌『叢生』129号
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2003.12.1
大阪府豊中市
叢生詩社・島田陽子氏 発行
400円
 

    猿が人間になるにあたって    佐山 啓

   いちばん変化したのは
   その位置に違いない

   オスが立ち上がったとき
   何が見えるでしょうか?
   メスが立ち上がったとき
   何が見えなくなるでしょうか?

   四つんばいのオスは
   牙と前足を武器に
   ときに威嚇の叫び声をあげた
   やがておそるおそる立ち上がったオスは
   どうにも無防備な己の姿に気が付いた
   これはえらいこっちゃがな
   格好の獲物が前にぶら下がってるやないかいな

   歴史を経て
   男の羞恥心が生まれた
   四つんばいのメスは
   背後からフェロモンを発して
   オスを欲情させた
   やがてメスもおそるおそる立ち上がり思わず叫んだ
   あれ?フェロモン発生装置がかくれてしまってるじゃ
   ん!
   手なずける新たな方法
   オスを刺激する媚態と
   隠されたものへの憧れを開発した

   歴史を経て
   男の習性が身についた

   人類文化学上の大発見だぞこれは
   詩に書いて終わりにするのはもったいないぞ

   ほんとだ

 これは「ほんと」に「人類文化学上の大発見」ですね。特に「隠されたものへの憧れ」などは納得できます。こういう頭の柔らかい発想というのはすごいことですし「詩に書いて終わりにするのはもったいない」ことだと私も思います。詩を書いていると時々こういう発想ができることがあって、詩の可能性を感じます。それにしても「どうにも無防備な己の姿」というのは「オス」としては実感です。



  季刊詩誌GAIA6号
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2003.12.1
大阪府豊中市
ガイア発行所・上杉輝子氏 発行
500円
 

    ことばが詩になる    さかなし かい

   ことばを択ぼうとすると
   ことばは揺れてまぼろしのようだ
   択ぶのはひとだが
   ことばは呼びかけにより様々にしなをする

   樹木や風景は視る角度で
   微妙に佇まいを替えるが
   どの位置から見ても
   被写体は同じだ

   替わるのはそれを写し取る心模様で
   語彙は辞典の中に仕舞ってある
   ことばは意味と映像を創る部品のように
   組み合わさり百人百様の色彩を描く

   と 彼は考える
   彼は検事のように厳密にことばを吟味する
   イメージを動かぬ証拠に
   獲物を捕えた猟師の貌で満面に緊張をたたえて…

   男は寝っ転がっている
   飲みさしの缶ビールに片手を伸ばしながら
   捲れた文庫本を目で追っかける
   会社で話題になることは万に一つもないことば

   ことばは落魄れる
   度重なる失職で首を吊るしかないと思いつめた男が
   遺書の代わりにふと昔読んだ詩句を思い出す
   「死は経験にはならない お終いだ」

   ことばは曲者だ
   寝そべっていた男がむっくり起き上がる

 「死は経験にはならない お終いだ」という「詩句」は素晴らしいですね。誰もが経験することでありながら決して経験にはならない、まさにそれは「お終い」。当り前のことなんですが誰も書いたことはないと思います。思わず○印を付けてしまいました。
 第4連もなかなか鋭いと思います。「検事」「イメージを動かぬ証拠に」「猟師の貌」という発想も見たことがありません。「ことばが詩になる」という大きなタイトルですが、それに負けない充分な内容の作品だと思いました。




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