きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり

  kumogakure  
 
 
「クモガクレ」
Calumia godeffroyi
カワアナゴ科

2003.12.7(日)

 嫁さんがWindoes-XPをどうしても欲しいというので買いに行ってきました。家にはSONYのVAIOで1台あるんですが、私が使っています。他にWindows-98が2台、95が1台あるんですけど、講習会で教わったXPでないと使えないと言うんですね。NECのPC8001からコンピュータと付き合ってきた私としては95以降なら実用上の問題はないと思っているんですけど、そうもいかないようです。
 買ってきたのはNECのXPです。理由は一番安かったから(^^; 12万ぐらいでしたかね、安くなったものです。昔、PC8801という8ビットのパソコンを50万ほどで買って、プリンターやハードディスクを揃えて100万ほどになったことからすると夢のようです。ま、せいぜい役立ててほしいものです。



  詩誌1/2
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2003.12.1
東京都中央区
近野十志夫氏 発行
400円
 

    ロープの先に    都月次郎

   みんな疲れているのだ
   こころもからだも。
   海のゆりかごに
   抱かれて眠りたいほど。

   やさしくされたいから
   やさしくはできない。
   求めていることはみんな同じ。
   多くは望んでいないのに
   ささやかな幸福の前に
   立ちはだかるいくつもの壁。

   いつからだろう
   ひとと議論をしなくなったのは
   ぶつかればきっと自分が傷つく
   言葉は沈黙の深い穴に落とせばいい。

   みんな疲れているのだ
   こころもからだも。
   明日生きるために
   とりあえず今を犠牲にする。
   ふりむけば犠牲になったにんげんの歴史が
   一本のロープとなって
   空の彼方へ続いている。

   おそろしいとはおもいませんか?
   その先頭に
   わたしの今があることを。

 この作品には共感しますね、おそらく私と同年代の詩人ではないかと思います。「いつからだろう/ひとと議論をしなくなったのは」「明日生きるために/とりあえず今を犠牲にする。」などのフレーズには敏感に反応してしまいます。ただ、私と違うのは「その先頭に/わたしの今がある」というフレーズです。そこまでは考え至りませんでした。そういう位置にあるという認識さえなく、「とりあえず今を犠牲にする」しかないな、という低次元に甘んじていたことに気付かされました。そういう意味でも刺激を受けた作品です。



  植村秋江氏詩集『滞在許可証』
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2003.11.28
東京都豊島区
書肆山田刊
2500円+税
 

    滞在許可証

   確かこのあたりだった
   本郷通りを一筋はいったかどに
   小さなフランス料理の店があった
   フレッシュフォアグラのソテー
   築地仕込みの魚貝のブイヤべ−ス
   気取らない雰囲気と味付けが人気の
   「滞在許可証」という名の店だった

   窓から大銀杏と小さな祠が見えた
   記憶を頼りに尋ねた店は
   しかし 閉じられていた
   ここ数年の空白の時間
   若かったシェフの身に何があったのか
   看板を降ろした店の 間口の意外な狭さに
   開店時の活気は重なってこない
   店を張るとは こういう事だったのだ

   人 土地 時代が一つに結ばれて
   暮らしは続いていく
   過ぎ去れば たちまちに
   現か幻かの区別さえ おぼろになって

   消えたのはフランス料理の店?
   それともあの時のわたし?

   地図は日々
   書き換えられなければならない
   人の地図も……

   誰もが持っている 滞在許可証
   誰も知らない その有効期限

 詩集のタイトルポエムです。「滞在許可証」とは店の名前だったのですね。そこから人生の「滞在許可証」へと拡げた発想は見事だと思います。しかも店が「閉じられていた」ことと関連させて「有効期限」へと無理なく導入した手法には敬服します。さらに、そういう云わば表層のことだけでなく「店を張るとは こういう事だったのだ」という本質までさり気なく見せて、この詩人の懐の深さを感じました。
 他に、巻頭の「早春」、難聴の義兄の事故死を見つめた「黄砂の来た日」など優れた作品が多く、今年の日本詩壇の収穫の1冊と云えましょう。



  詩誌EOS2号
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2003.11.30
札幌市東区
EOS編集室・安英 晶氏 発行
500円
 

    顛末    安英 晶

   闇が光を吸収しながら
   時間たちが次々と死んでいく 老いていく
   老いて(あ、ああああああ
   (死んでいく時間に
   蘇生するわたしの不思議

   火のさざ波が足裏を濡らす(くすぐる/舐める

   青から黄 黄から赤
   濡れたように点滅する信号機の あか色の
   異都の風景を擦過してのみこんでいく夜の死児たち
   つぎつぎと老いていく時間の
   まだ死んでいかないわたし の

   魚藍坂から品川へ
   魚藍坂から品川へ
   闇のなかに闇を追い越し
   追い越し溶かして
   すでに(半分消えかかっているわたしという肉体

   霊たちが闇の喉もとまでせりあがってくる

   朝食べた
   水莱 セロリ ルッコラ が
   身体というみず袋のなかになまめかしく浮かんで

   夜の石ひかり 石の内部の静寂ひかり
   かすかに影の表情
   光の斑紋/波動
   やわらかな わたしたちの関係 ですね

         月が移動する
    闇の沈潜
   魚藍坂から品川へ
   魚藍坂から品川へ
   (ああああああああああああ あらぶる
                   風の奇襲
   わたしのなかの死者を呼び出し
   わたしのなかの死者を起き上がらせ

   われもこう(吾亦紅/吾もまた紅いよ

   開いたり閉じたりの
   しろいくらげのような ねえ
   死者たちが
   わたしの身体のどこかから湧き出して
   闇のなかをぞろぞろ歩いていくわ

   かすかに毯唄のようなものも聞こえ(わたしの指/震え

   魚藍坂から品川へ
   魚藍坂から品川へ
   ひかりの軌道を割って
   魂が急いでいる
   いのちの破壊に向かって心音が走る

   疾駆するゆめの泡の失踪するわたし
   闇硝子のつめたい体温
   あるともない ないともない
   いのちだとか魂とか
   それらのものを捜しに行く
   それらのものを捨てに行く

   やわらかなわたしたちの関係
   風がかしぐ 夜が(魂が)Aあ、かしぐ
   わたしが わたしたTIちが
   それらのすべてがGA あ、傾きKAかしぐ

   闇が光を吸収しながら
   わたしたちのしらない音域で
   生者のすがたで

   魚藍坂から品川へ
   魚藍坂から品川へ
   われもこう ぷちぷちと微小の粒にあかをほどき
    (吾亦紅/われも また あかいよ
    あ ああああああああああ
   ほどいたあかを闇硝子に閉じ込める
   われもまたあかいよ われもまたあかいよ
   ぷるぷると ゼラチン質のような魂に
   うっすらと血をにじませて

   魚藍坂から品川へ
   魚藍坂から品川へ
   あれから
   存在というものが幽霊のように
   わたしのどこかに座っているのは

 生と死の「顛末」を描いた作品で、ちょっと長かったのですが全行を紹介してみました。「Aあ、かしぐ」「わたしたTIちが」「それらのすべてがGA あ、傾きKAかしぐ」など表現の工夫も見られるおもしろい作品だと思います。「吾亦紅」「魚藍坂」のリフレインは「血」へ収束するものかもしれません。リズミカルな言葉の裏で生死の本質を探っている作品だと思いました。



  詩誌『あかぺら』10号
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2003.11.15
滋賀県守山市
徳永 遊氏 発行
非売品
 

    うた    中川江津子

   あなたは自分だけの「うた」を持っていますか と
   問われて 素直に「はい」と答えた それはどんな
   「うた」ですか ここで口ずさむことができますか
   いいえ  それはできません  わたしには思い出せ
   ない「うた」なのです でも それは確かにわたし
   だけの「うた」なのです

   遠い日 戦後まもなく建てられた家には土間があ
   りカマドがあった 続き間には小さな板張りの部
   屋があり 踏めばギシギシと音をたてる板間と土
   間の間を日に何度も行き来する時 確かに「うた」
   は流れていた カマドから吹きこぼれる乳色の流
   れに沿って 温かなおいしい匂いと共に「うた」は
   絶え間なく流れ そして黒光りする板間の上をホ
   ウキの穂先が掃き清めていく上を「うた」は集めら
   れ そしてまた 洗い張りの針と針に刺される布
   の隙間にも
   いくつもの音の谷間に流れているたったひとつの
   「うた」
   その「うた」をわたしは知りません 思い出そうと
   すれば浮かんでくる風景の中で わたしはいつも
   耳を澄ましているのです

   どこで覚えた「うた」なのかわかりません 誰が歌
   っていた「うた」なのかわかりません でもいつも
   わたしはその「うた」の傍にいたのです
   あなたは自分だけの「うた」を持っていますか と
   問われて 素直に「はい」と答えた けれど歌うこ
   とは今もできない

   あなたはどうですか

 「あなたはどうですか」と問われて、私も思わずはい≠ニ応えてしまいました。これは判りますね。「口ずさむことができ」ず、「思い出せない」けれど、「確かにわたしだけの『うた』」というものはあります。生れてモノ心ついたころに覚えたものなのでしょうか、なつかしいかすかな記憶とともに蘇ってきます。普段は気付かない、人間の持って生れた感情・感覚を表現した稀有な作品と云えましょう。




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