きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり

  kumogakure  
 
 
「クモガクレ」
Calumia godeffroyi
カワアナゴ科

2003.12.9(火)

 午後から二つの会議があって、結局18時まで掛かってしまいました。それはそれで仕方のないことなんですけど、早く終ってホッとしているのが本音です。明日から2泊3日の出張に行かなくてはならなくて、準備をまだしていないので、帰りが遅くなるのは困るなと思っていましたから…。
 出張は多い方ですが日帰りや1泊がほとんどで2泊はあまりありません。研修で5泊、なんてのは別ですけど…。しかも2社を訪問することになっています。資料なんか事前に準備すればいいんですけどね、なかなかそうもいかなくて直前に揃えるというのが実体です。まあ、いずれにしろ準備万端にはなりました。



  秦 恒平氏著『湖の本』エッセイ30 古典愛読・古典独歩
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2003.12.1
東京都西東京市
「湖(うみ)の本」版元 発行
1900円
 

 「古典愛読」は1981年に中公新書版の再録、「古典独歩」は雑誌などに載せられたエッセイの再録となっていました。いずれも「上」「一」とあるように全体の半分を収めており、次号で全体が顕わになるようです。
 論は「古事記」「源氏物語」「万葉集」と多岐に渡り、しかしその意外に通底する言葉について語られており、古典にはまったくド素人の私でも、読んでみたいなと思わせます。ここでその感想を書き連ねると、また1冊の本になってしまいそうですので止めますが、著者のモノの見方の鋭さを示す一例として、次の句の読みを紹介しましょう。

   竹馬やいろはにほへとちりぢりに

 これは久保田万次郎の句で、「ぢり」は原文ではオドリになっているのですが表現できないので表示のようにしてあります。
 誰もが「竹馬や」「ちりぢりに」でひとつの情景が浮かぶことでしょう。昭和30年代まで残っていた情景。竹馬で遊んでいた子等が夕暮になって親に呼ばれる。みな家を目指して「ちりぢり」に駆けて行く。そこまでは判る。しかし問題は「いろはにほへと」ですね。この解釈について、さらに句をいかに深く読むかについて著者は次のように述べています。

    が、さて「いろはにほへと」が問題だ。
   昨今、ものの数勘定には、便利な、数字がある。記号にはアルファベットを使う人も多い。しかし日
   本ではかつて、というよりも、比較的近代に至るまで右の両方に「いろは」を使っていた。
    私の息子は中学の二年C組にいる、が、この私が昭和十七年(1942)四月に京都市立有済国民学
   校に入学した時は一年イ組だった。それが卒業の時は六年一組になっていた。
   「イ組」「ロ組」といえば、江戸は下町一帯の定火消
(じょうびけし)を想い出す。お芝居の『め組の喧嘩』を想い出す。
   赤穂四十七士が背中や袖につけていた「いろは」四十七文字を想い出す。あれも火消し装束だったとい
   うが、火消しのことはこの際措いて、「いろはにほへと」とは竹馬で遊んでいたのが二人や三人でなく、
   まして一人ぽっちでなく、何人もいたことを先ず想わせる。それからその子どもの一人一人がべつに太
   郎でも正男でも健一でも花子でもない、かりに実の名前はそうであってもそんな名前をとくに呼び立て
   るまでもない、ただ「いろはにほへと」と勘定してそれで用の足りるごく普通の子どもたちであること
   を、みごとに表現している。そう表現することで、句の深さ広さがしっかり出来てくる。なるほど久保
   田万太郎の世界が息づいているし、むろん「いろはにほへとちりぢりに」と中
(なか)句から下(しも)句へ詞の懸かり
   かたも申し分ない。
    およそこんな読みかたで十分ではあろう、が、もう一段踏みこむなら、やはり「竹馬の友」に懸けて
   の、「ちりぢりに」に、子どもの昔をひとり追憶する老いごころとでもいうところを汲みたくなる。す
   ると「色は匂ヘど」という、中の句がそこはかとない人生の哀歓や無常の思いへひしと繋がれて来る。
   竹馬遊びに、おきゃんな少女もまじっていたかと想像するのもよい。往時ははるかに夢の如く、老境の
   夕茜ははや心のすみずみから蒼く色褪
(さ)めはじめている。かつての友は故郷にほとんど跡を絶えて訪(おとな)う由
   もない。想像は想像を呼んで、この一句、さながらの人生かのようにずっしり胸の底に立つ。

 「いろはにほへと」の解釈もさることながら「老いごころ」まで踏み込むのはさすがです。ここまで読まれて万次郎もさぞや満足していることと思います。作品鑑賞の極意を教えられた文章です。



  詩とエッセイ誌『焔』66号
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2003.11.20
横浜市西区
福田正夫詩の会 発行
1000円
 

    ネコの言い分    保坂登志子

   ドアを開けると
   庭に住み着いてしまったらしいネコが
   待っていましたとばかりに擦り寄ってきた
   足がもつれて歩けないほどにネエー ネエー と

   見ると足下に噛み切った小ネズミを転がし
   私を見上げてしつこく絡まり
   労いの言葉を要求しているらしい
   解ったつもりの私はネコを褒めてやり
   それから
   戦利品の残骸を空き地に埋め
   洗剤を泡立て三和土
(たたき)をごしごし洗い流した

   ああ
   一ケ月近くキャッツフードをやったばっかりに
   なんと律儀なご挨拶!
   つい先頃 庭に来るネコに餌をやっていたら
   庭で子猫が四匹産まれて大あわての友人
   「子ネコもらって下さい」
   「野良猫を増やさないための不妊手術基金にご協力
   を!」運動を開始
   私もカンパをしたばかり

   はて ネコの言い分はなんだったのだろう
   キャッツフードのお礼なのか 不満なのか
   ただの得意だったのか

   いやあれは私への贈り物だったのだ
   私の偽善を暴いて見せた贈り物
   決別の儀式だったに違いない

   あれ以来キャッツフードは減っていない

 最終連が見事な作品だと思います。「私の偽善を暴いて見せた贈り物/決別の儀式だったに違いない」と「ネコの言い分」を見抜く眼力にも敬服します。確かに、人間にとっては善意の「野良猫を増やさないための不妊手術」であっても、猫にとっては迷惑千万なこと。そこまで猫に立場に視線を落とさなければこの作品は生れなかったと云えましょう。作者の、本質的にあたたかい人間味を感じさせる作品です。



  詩誌『燦α』23号
    san alpha 23.JPG    
 
 
 
 
2003.10.16
埼玉県さいたま市
燦詩文会・二瓶 徹氏 発行
非売品
 

    看板    柏木隆雄

   創業は天明三年
   そんな古い看板が
   蕎麦屋の軒先を飾っている
   歴史では 天明の大飢饉
   米は無くても 蕎麦はあった

   よく見ると 看板は欅の一枚板
   文字の一字に 大きなひび割れ
   縦に白く流れているのは
   燕の不始末の痕らしい
   その時 一瞬の黒い影
   飛燕そのもの
   たちまち一羽が
   看板の後に隠れた
   小さな囀りが 確かに聴こえた
   古い家並みの 老舗の軒先の
   小さな営み

   燕一家の詮索は 止めにして
   蕎麦屋の暖簾をくぐった

      この詩は、田中隆司氏の作曲により、
      平成一五年九月一日 柏市『アミユゼ柏』において、
      『新・波の会 千葉・茨城支部コンサート』で初演される。

 「招待席」の作品です。「燕の不始末の痕」にちょっと不愉快な感じを抱いたのでしょう。しかし「小さな囀りが 確かに聴こえ」て「小さな営み」に気付いています。そして「燕一家の詮索は 止めにして/蕎麦屋の暖簾をくぐ」りました。この一連の心の動きが良く判って、読み終わると微笑みさえ浮かべている自分に気付きます。心あたたまる佳作と云えましょう。



  詩誌『燦α』24号
    san alpha 24.JPG    
 
 
 
 
2003.12.16
埼玉県さいたま市
燦詩文会・二瓶 徹氏 発行
非売品

    やじろべえ    堀田郁子

   時々両手に持って
   秤ってみようと思う
   体の痛みと
   心の痛み
   どららが重いか

   どちらも重すぎて
   腕はそれを支えきれず
   ぐたりと下に垂れ
   その子はこわれたやじろべえ

   その子はいつも標的
   シャーペンの先の
   ふりあげられた箒の
   プロレスごっこの技の

   その子はいつも理不尽のまっただなか
   彼のもちものは
   悪意にみちたらくがきで汚され
   しばしばなくなる

   うろたえるその子に
   ひややかな視線がそそがれる

   冷えた瞳のこども達は
   また新しいゲームを思いつく
   その子を音楽室にとじこめて
   一日に何回泣くか数えるという

   ふりおろされる
   あるいは横から下からとんでくる
   こぶしのわけを
   頭と腹をかばってまるめた体に
   何度もけり入れられる靴先のわけを
   その子は知らない
   こらえきれず しみだす泣き声は
   先生にも両親にも届かない
   空き教室の中に
   声がわりしないソプラノが楽しそうに響く
   「いっかあい」
   「にいかあい」・・・

   家に帰ればもうすっかり力つきて
   勉強する気力もない
   好きな形にならべたおもちゃやNゲージを
   腹ばいになって眺める

   その子は痛みを細くはきだし
   悲しみのまゆを作る
   自分とおもちゃたちだけの静かな世界

   けれど宿題もせずに
   おもちゃばかり眺めているその子の
   悲しみのまゆが母親には見えない

   その子は 今 在ることに
   重心をとろうと思う
   けれどもう心もこわれたやじろべえ

   心がだんだんかたくなる

   そのままかたまってちぢんで
   おもちゃの中にまざっていたら
   きっと母親はその子をみつけられない

   「こんな所にこわれたやじろべえがあるわ」
   きっとゴミ箱に捨ててしまう

   その子はこのごろ思い描く
   校舎の四階のあの教室の窓から
   腕を水平にあげてとびだす事を

   こわれたやじろべえに
   翼などあるはずはない
   鳥になれるわけもないと知っているけれど

 なんとも遣る瀬ない作品です。しかし現実はちゃんと見なければならないでしょう。「心がだんだんかたくなる」前に、「腕を水平にあげてとびだす」前に。そして「冷えた瞳のこども達」がなぜつくられていくのかも考えなければならないように思います。端的に言ってしまえば、子は親の鏡・鑑に尽きるでしょうか。さらに、親や学校を非難するのも結構ですが、一人の個としていかに深く考えるかが個人個人に問われている時代なのだとも思います。個の利益のみを追わずに…。考えさせられる作品です。



  個人誌『パープル』23号
    purple 23.JPG    
 
 
 
 
2004.1.16
川崎市宮前区
パープルの会・高村昌憲氏 発行
500円
 

    グラス    なべくらますみ

   指先ではじくと
   張りつめた音がする
   かかげて見る透き通った冷たさに
   溶ける真紅の熱さを想う

   掌に納め ひと思いに力を込めれば
   鋭く走る痛み したたり落ちるもの
   そのような危険を孕んだ
   薄いグラスが好い

 第6回パープル賞の受賞作品です。選者の齋藤氏の選評が簡潔に作品の良さを伝えていますので、それも合せて紹介します。

    四行二連という詩形の中にグラスの過去・現在・未
   来を的確に捕らえ、「そのような危険を孕んだ/薄い
   グラスが好い」と断じた感性に、作者の詩に賭けた思
   いの熱さを見た。

 これ以上の言葉は蛇足になりますが、私は第1連の「透き通った冷たさ」と「溶ける真紅の熱さ」の対比にも魅了されました。受賞したなべくらさんにも良い作品に巡りあえた主催者にもおめでとうと言いたいですね。




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