きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり

  kumogakure  
 
 
「クモガクレ」
Calumia godeffroyi
カワアナゴ科

2003.12.11(木)

 出張2日目。昨夜は20時までがんばったお陰で、今日は13時に終了してしまいました。昨日は私の出番はほとんど無かったんですが、今日は主役です。クロージングミーティングの司会をして、仕事の進度状況の確認、そこから新たに発見された問題点を協議しました。まあ、たいしたことはなかったんですけどね…。たいしたことだと思ったのは……お金。貸与している機械が私の担当になるまで5人ほどの人が担当していました。その全てがうまく機能していたわけではなく、当然やっておかなければならなかったメンテナンスがなおざりにされていることも判って、だいぶお金をかけて修理・更新しないといけないなと自覚した次第です。前任者のことをとやかく言ってもしょうがないので、予算取りをして対応することを約束しました。その、ちゃんと約束をするというのが私の役目だったかな(^^;

 13時半頃の山形新幹線で一路帰宅、、、とはいかなかったですね。同行の技術者はそのまま帰宅できたんですけど、私はもう1泊。明日の13時から茨城県の水戸線沿線の工場で会議がありますので、栃木県小山市に宿をとってありました。小山のホテルには夜着く予定でしたから、早めに着いたのは良かったんですけど、旅先でのひとりの晩メシというのは侘しいものでしたね。でも、いいお酒を見つけました。小山の地酒で「若盛」というのですが、これが安くてうまい! どうせたいした酒じゃないだろうと期待していなかったんですが、掘出物でした。こういう遭遇があるから地酒探しはやめられません。栃木県小山市って、途中下車では何度も訪れている処ですけど、これは初めての経験で、いっぺんに好きな街になりました。



  詩誌Avril12輯(終刊号)
    avril 12.JPG    
 
 
 
 
2003.12.1
東京都八王子市
詩と健康の会 発行
300円
 

    めぐりゆく    和田文雄

   小さな機関車は小さな停車場にとまり
   精一杯の汽笛を吹いて走りだした
   いつもこうしてめぐってゆくときがはじまる

   回廊のはしがかりに思いをかけ
   渡ってゆくうしろ姿を遠見して
   もどってこないとわかったとき空気が薄れた

   橋がかりにつながれた記憶は
   足もとを照らしてくれる灯を点してくれた
   だが思うことの叶うことなどなかったと
   どこかで領くものがある

   責め立てるものに沈黙した
   託っては忘れようとするが
   それで済むことでもなく
   灯はまだ点っていない

   朝はやく受信塔に鳥がとまっている
   いつ飛びさるのかおおかた見逃すだろう
   とびたった鳥の行方を知ることはできない
   小さな機関車が走りさったときの汽笛が
   消え残っているはずがないと同じように

   回廊が壊され渡る人も見られなくなった
   盛り場の雑踏にまぎれ遠くなって
   転車台で無造作に方向をかえられた機関車も
   季節も物ごともこわれた

   驀進ということばも標識板もはずされ
   時間のなかに溶かされ
   めぐってゆくよと
   言付けされた

 輪廻転生を描いた作品のように思います。「いつもこうしてめぐってゆくときがはじまる」のだが、「もどってこないとわかったとき」もあり、その時は「空気が薄れた」のだと感じる感性は素晴らしいですね。そして「だが思うことの叶うことなどなかった」とする達観、この詩句にも惹きつけられます。「機関車」に仮託した表現は「めぐりゆく」ものの代表として適切なものだと思います。「機関車」というモノ、それを取巻いた時間を考えると過ぎ行くものの無常を感じますが、別の詩誌に載せられた「めぐりくる」という作品を合せて読むと、輪廻に作者はある種の希望を抱いているのではないかと思った作品です。



  詩誌『潮流詩派』196号
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2004.1.1
東京都中野区
潮流詩派の会・村田正夫氏 発行
500円+税
 

    その朝 牛乳を置きに    中田紀子

   綾子伯母さんが牛乳を持ってきたのは
   午前八時十分
   さようならと
   玄関の戸を閉めたあと
   一瞬の暗黒をともない
   ひかりが炸烈した
   綾子伯母さんは
   翌朝 焦げた塊になっていて
   触ると炭のように崩れたという

   牛乳を受けとった光子叔母さんは
   落ちてきた屋根に守られ
   数千度の熱を浴びずに
   いまもわたしの近くに
   五十八年まえの人になって生きている
   もう一分まえの出来事さえも
   記憶できないのに
   この朝のことは
   くり返し話すのだ

   テレビに映るバクダッドの街の
   燃える家の炎をみて
   はよう消して はよう消してあげてと
   けさも騒いでいる
   遠い日の忘れられない焔が
   壊れてしまった細胞に燃え移り
   その心細いはずの彼女の胸が
   はりさけそうに
   他者のために助けを求めている

   綾子伯母さんがあと三分あとに来たら
   あの日あんなに晴れていなかったら
   アメリカ兵がスイッチさえ押さなかったら
   小さい頃から聞いてきた
   多くのifのなかで
   その朝 牛乳を置きにきた
   綾子伯母さんの不運が
   いちばん悲しく思えた

   炭化した連遺体と
   二十一世紀の焔を見ている体

   遭遇したものとしなかったもの
   僅かな数秒が分けた
   おおいなる その差が
   くやしかった

 特集「朝」の中の作品です。現代詩では「くやしかった」というような直接の表現は好まれないのですが、この場合は非常に有効な詩句だと思います。「綾子伯母さんの不運が/いちばん悲しく思えた」というフレーズも同様に必要なものだと云えましょう。それら詩人の常識≠ノ有無を言わせない強さをこの作品は持っていると思います。もちろん強い言葉で書かれているわけではなく、素材の持つ強さ、それを扱う作者の強さが投影されています。忘れてはならない「朝」があることを教えてくれる作品です。



  浅野 浩氏詩集『光る海熱い海へ』
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2003.11.25
東京都新宿区
土曜美術社出版販売刊
2000円+税
 

    過ぎゆく日々

   長い旅の終りから始まる旅
   夜の街を疾走する人々の群れが
   ほとばしる水のように流れ
   影となって地平線に駆けていく

   海峡を渡るとまた一つの海峡が現れる
   果てしなく伸びつづける闇の彼方に向かって
   迫るように逃亡する街々の
   向こう側にまで遠ざかる記憶の遠近

   霧に覆われた都市
   切りとられた歳月に包まれ
   記憶のないまま
   ぼくたちは睡眠群島を漂うばかりだ

   心の中を流れる川に沿って氾濫する記憶
   街という街で交差する男たちは
   皆 ハイエナの匂いがした

   眼に映る一粒の種子の世界
   ぼくと君
   街と街を結ぶ歩道橋から立ちのぼる
   陽炎のような海を疾走する人々の中で
   淀んだ流れを漂う者たちは放物線を描いて落下する

   今日もまたひとりの旅がはじまる
   過ぎゆく日々 心の闇に身を潜め
   夢を追いかけ 視線の向こう側に息づくぼくたちの鼓動
   涙を拭いて海鳴りを聞きながら
   レールを跨ぎ越し 風のように街を過ぎる

 「長い旅の終りから始まる旅」というフレーズにまず圧倒されました。第2連の「海峡を渡るとまた一つの海峡が現れる」にも掛かってくるのでしょうが「果てしなく伸びつづける闇の彼方」を感じさせます。そこでは「記憶」も重要なファクターなのかもしれません。「記憶の遠近」「氾濫する記憶」と魅力的な詩句が続きます。「夢を追いかけ」ることにもつながっていくのでしょう。私にとっても「過ぎゆく日々」を考えさせられた作品です。




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