きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり

  kumogakure  
 
 
「クモガクレ」
Calumia godeffroyi
カワアナゴ科

2003.12.14(日)

 昨日から終日、いただいた本を拝読していました。ようやく滞納1ヵ月以内に届きそうです。やっぱり、少なくとも1ヵ月以内には礼状を書きたいですね。お礼が遅れていてすみません。これから年末まで、休日は全て読書に費やします。年内には何とか12月分を読み終わりたいものです。



  個人誌Moderato20号
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2003.11.25
和歌山県和歌山市
出発社・岡崎 葉氏 発行
年間購読料2000円
 

    河口の森    くりす たきじ

   紀ノ川に新しい橋が生れても
   河口の街は対岸に渡ろうとはしない
   もう一歩も動けないと顔を背けている

   森を見て木を見ないように
   街を見て人を見なくなった
   ふとそんな気がして
   住み慣れた街の雑踏を歩く
   休日なのに誰もいない公園
   年中無休だけど店番のいないお店
   どこかに不安が潜んでいるはずなのに
   それを感じない不安
   お城の若葉は確かにきれいだけど
   歩道の銀杏にまともな枝はひとつもない
   ほどほどに伸びたらばっさり枝を切り落とす
   そんなふうにして
   ひとも街も育ってきたのだろうか
   枝がなかったら賑わいも文化も生れないのに

   夜更けにあの橋を歩いて渡る
   痩せた街の輪郭が低く黒い森が横たわるようだ
   疎らなネオンは白い月に負けている
   河口のひとも街も
   もうすっかり忘れてはいないか
   痩せた街の下には豊かな河口が眠っている
   風と光と波が砂丘の上に満ちていたのは
   そんなに遠い過去ではなかったはず
   想像してみれば今だって
   賑やかな明日が見えてくる
   ほんの少しだけ枝と根を伸ばしたら
   ほら 豊かな森が見えてこないか

 「街を見て人を見なくなった」というフレーズに惹かれました。そうなのかもしれませんね。「どこかに不安が潜んでいるはずなのに/それを感じない不安」は、人間不在の街を端的に表している言葉だと思います。「そんなふうにして/ひとも街も育ってきたのだろう」と私も思います。その謎を解き明かすのも詩人の仕事と云えましょうか。それから「豊かな森が見えて」くるのではないか、とも思います。現代に突きつけた大きな提言が表出している作品だと思いました。



  季刊詩誌『火山彈』64号
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2003.11.20
岩手県盛岡市
「火山彈」の会・内川吉男氏 発行
700円
 

    透明人間P    藤森重紀

   しらぬ間に
   妻が電子に寝取られていた―――

   いや
   電子を操る男が
   音もなく妻に忍び込んでいた
   当然
   亭主は埒外におかれ
   妻は元同僚とか名乗る男に
   末梢神経ことごとく
   マインド・コントロールされていた!

   (妻の誕生日が近いため)
   花屋に寄って帰っても
   調理器具には黴が生え
   フリーセルにみせかけて
   渾身こめて血走って
   コンピューターに張りついて
   メールの窓はめらめらと
   睦言隠語で燃えさかり

   一身鰊三振などと(一信、二信、三信の意だろう)
   文字変換もマダルッコしく
   情事に溺れたカップルが
   場末のホテルで時計をにらみ
   せわしく衣服を脱ぎあうごとく
   電子と電子が日夜を問わず
   秘匿の箱でもつれあう!

   そのうち男は詩集を出して
   妻を「秘書」にまつりあげ
   時には叱り時には褒めて
   からめ手からの羽交い締め
   妻は夕餉に出られない

   夢に賭ける無名作家の「Pちょ」(妻が男へ呼びかける愛称)
   透明人間になりすまし
   亭主の前を排掴し
   生き霊のごとき形相で
   妻の背中にかぶりつく

   (博物館、文学館、一泊旅行などに)
   妻と気軽に外出し
   妻と一緒に飯を食い
   妻と気軽に入浴し
   妻と一緒に排泄し
   妻と仲良く茶をすすり
   妻と一緒に横たわり
   妻の乳房を吸っている!

 「透明人間P」には思わず笑ってしまいましたが、急に冷や汗をかいてしまいました。ちょっと待て、これってオレのことを言われているみたいだぞ! もちろんそんな訳はありませんが、精神的には近いものがあるでしょう。「妻と気軽に外出し/妻と一緒に飯を食い」ぐらいは日常茶飯事ですからね。怖いのは電話や手紙ではなく「メール」で連絡しあうということでしょうか。逆に夫・父親の立場としては、「妻」や娘が「メール」のやりとりをしている場合、まったく内容がつかめない(^^;

 まあ、そんな世俗のことは措いておくとして、作品としてすごいのは「透明人間になりすまし/亭主の前を排掴し」ている、と見ていることだと思います。「電子を操る男」をそのように表現する感覚がおもしろいし、現代だなと思います。これからどんな世の中になっていくのか、そんなことを考えさせられた作品です。



  つきの慧氏詩集『つきのあかり』
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2004.1.15
東京都新宿区
文芸社刊
1100円+税
 

    赤い缶かん

   おばあちゃんの お菓子の缶かん

   学校から帰ってきたら
   タンスの上の方から
   降ろしてもらって

   「早く早く! 今日のおやつ なん?」

   何が出てくるか ワクワク
   魔法の赤い缶かん

   「ちょっと待ち! 手 洗ってきたんね?」
   「わかっとる わかっとる」

   お小言も そこそこに
   へへへ! 今日はおせんべだー!!

   共働きの両親に
   母親代わりのガミガミばあちゃん

   赤い缶かん いつから なくなったんだっけ

   ……………………………………………………

   久しぶりにおばあちゃんに会った

   おこづかいにって くしやくしやの千円

   「あんたに あげるのが楽しみなんやけ
   もらっときなさい」

   母の声

   ありがとう……って貰いながら
   涙出てきそうになった

   あの赤い缶かん
   思い出してた

   いつだって 貰ってばっかりで
   何にも まだ返せないけれど

   「おばあちゃん…………」

   そっと抱きしめたら
   しわしわの手が背中撫でてくれた

 これは誰にも近い思い出があるのではないでしょうか。「おばあちゃん」というのは孫にとって居心地のいい処なんですね。大袈裟に言えば日本人の良心を支えている人、とまで私は思っています。
 作品としては「おばあちゃん」がよく描けていると思います。描くことによって自分に照りかえってくる、それが詩の醍醐味のひとつだろうと思います。著者のそんな純真な視線をいつまでも大事にしてほしいと思った作品です。




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