きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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「クモガクレ」 |
Calumia
godeffroyi |
カワアナゴ科 |
2003.12.16(火)
東京本社の営業担当者の訪問を受け、3時間ほど話をしました。彼がかかえている問題点、商品のレベルアップについての相談です。手法を考え、実証し、理論的な裏づけをとらなければなりません。彼の部署ではそういう機材をほとんど持っていませんから、私のところで実験しなければならないのです。二人で喫煙室にこもって(^^; ああでもない、こうでもないとやって、何とか道筋は付けられそうです。実験にかかる前のこういう議論というのは、一見無駄のように思いますけど、私は一番大事にしています。ここで狂うと、あとは何をやってもダメです。長い会社生活で何度も失敗をして、やっと掴んだ哲学ですから、ここはじっくり考えましたね。あとは結果が着いてくるかどうかです。年末には判るでしょう。仕事の醍醐味を感じられるかどうか、ちょっとした勝負になりそうです。
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2003.12.15 |
東京都新宿区 |
思潮社刊 |
2600円+税 |
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歳月、失われた蕾の真実
遠く
遠く離れて
向かいあっている
盲目の白兎よ
いま私は
わたしたちの小さな葉と陽を映し出してくれた
きみの柔らかい瞳について考えている
「孤闘 あるいは思い起こせばうまくゆくのは稀れであったとしても
わたし
たちは国家が仕掛けてくる書記法にたいしてわたしたちの試みの書記法をさし
むけて一瞬の成就をみたこともあったのだったし いやただしくはそれにのみ
専心していたと言うべきでしょうが 闘い 闘い きみの面から柔らかい瞳と
光彩が失なわれて久しいが そう それについて誰かが曰く(艶を喪失したそ
のての生き物は いや艶のあるなしに拘らずそのての小動物は れいの瓦解で
消滅した骸より発生した亡霊であると)ゆえにすでにこの土地に棲む資格を有
していないのであると そのとききみの無い眼には 古い垣根に濡れた唇が背
を凭れかけているのが 感じとれていたにちがいなかった……」
蕾を含まない六月の斜風は
半身の白兎にとって
内側へ捲れる要素を養うこともなく
外側へ繰り出す要素を掴むもこともなく
ひとり 耐えている 耐えている
小刻みの震えで
自らの見えない指爪を打っている
七百キロ それとも千キロ離れた岸の鳴声が
雨期の枯れ草の匂いをともなって落魄の私を包むとき
きみに繰り返し未生のまま葬送する千年の暦が敷かれていたことを思い出す
とはいえ決してきみに絶命は訪れない
きみへの絶えまない殺戮は幾度も重ねられ
そのたびにきみは不具の度を深めたが
しかしきみは未生のままで絶命してはならない宿命を負っている
――
そう 強い 宿命!
おお白兎よ きみは
過去の瓦解したものの構造のなかに
一見含まれてある如くであったとしても
同じ街路で終日一緒にボール蹴りしたとしても
その構造の遙かに以前から
ひゅうひゅう聖歌を鳴らしていた
きみにしか出せない 強く 寒い
だがあたたかい音色で
いま私は自分の背理を(星屑を)述べようとしているのではありません
現実に即したきみの正午の楽曲を想像しているのです
懐かしい飛び地に触れるように落ちた肩をこすり
老衰の私
鏡像などではないひとりの独立したきみにむかって
欲望のままに降りてゆく……
ああすでに私は離れてしまったのか
そしてほんの一部分はきみの手探りの襞の肌理に接して
全く未来の成算は不明だけれどと呟きながら
(そして 私は いなくなったことではじめて実践的に)
白兎とそれに未知の領土について想像を巡らせることができる
それにしても 伝えなければならないのは仕組まれた白兎の死≠ナす 生あ
るものを独断で命名刻印する法の醜は銘記されなければならない
まだこのように白い毛は柔らかです
まだこのように白い耳は柔らかです
まだこのように白い顎は柔らかです
まだこのように白い喉は柔らかです
まだこのように白い背は柔らかです
まだこのように白い爪は柔らかです
まだこのように白い手足は柔らかです
あの色の瞳は除かれたけれども、
――
白兎を
つぎの世紀に
手渡さなければならないという呟き
*
踏まれている系が
回転する六月の草の血
真正な狂気
詩集のタイトルポエムです。かなり難しい作品ですが「白兎」を喩としてとらえれば良いと思っています。問題は何の喩と考えるかでしょうね。人間、子、文化などを私は想定しました。詩としても、あるいはタイトルから「真実」とするのも可能かと思います。ポインシはやはり最終連でしょうか。読者の鑑賞眼を試されている作品だと思います。
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新・日本現代詩文庫19 |
2003.12.20 |
東京都新宿区 |
土曜美術社出版販売刊 |
1400円+税 |
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にょしんらいはい
おんなのひとを きよめておくるとき
いちばん かなしみをさそわれるのは
あそこを きれいにしてやるときです
としとって これがおわりの
ちょうどふゆのこだちのように しずかなさまになっているひとも
おばあちゃんとよんでいたのに おもいのほかに
うつくしい ゆきのあしたのように
きよらかにしずまっているのをみいでたときなどは
ひごろいたらなかったわたくしたちのふるまいが
いかにくやしくなさけなく おもいかえされることでしょう
そこからうまれた たれもかれもが
けっして うみだされたときのくるしみなどを
おもいやってあげることもなく
それは ひっそりと わすれられたまま
なんじゅうねんも ひとりのこころにまもられていたものです
てもあしもうごかず ながやみにくるしむひとのかなしみは
あそこがよごれ しゅうちにおおうてもなくて
さらしものにするこころぐるしさ
いくたびもいくたびも そこからうみ
なやみくるしみいきて
いまはもうしなえたそこを きよめおわって
そっとまたをとじてやるとき
わたしたちは ひとりのにんげんからなにかをしずかにおもくうけとって
いきついでゆくとでもいうのでしょうか
紹介した作品は、今年84歳になった著者の33年前の第1詩集『にょしんらいはい』のタイトルポエムです。有名な詩で、私もタイトルだけは知っていたのですが初めて拝読しました。『ラ・メール』(1986年)、『女たちの名詩集』(1992年
新川和江編 思潮社)、『母系の女たちへ』(1993年
水野るり子 ペッパーランド編)、『現代詩歌集』(1999年
角川書店)などにも収録されているようです。
「そこからうまれた たれもかれもが/けっして うみだされたときのくるしみなどを/おもいやってあげることもなく」というフレーズは、私も亡くした母を思い出してしまいました。即物ではなく、生命の本質を語っている作品だと思いました。
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2003.12.10 |
千葉県香取郡東庄町 |
「吠」の会・山口惣司氏
発行 |
700円 |
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青い裸身 牧田久末
空が
唸っている
幾十にも重なって
飛び立つ鳥
雲と鳥の距離
まぶたの中に満ちる声
声がふるえて歌になって
何もないところに
濃い花を咲かせ
それを取り囲むように
ある
このことを今日と呼んでもいいし
明日と呼んでもいい
曇った空の中に隠れている
青い裸身
どこまでも光りの翼をひろげ
一つの宇宙にかぶさって
一つの卵をかえす
風 草 水 火 土 雲 ねこ とかげ…
名前がいっぱいつまった卵がかえると
名づけられなかったものすべてを
えさにして
大きくなっていく
始まりは
いつも
終わりをたべている
空を「青い裸身」とするところに魅力を感じます。最終連もいいですね。「風 草 水 火 土 雲 ねこ とかげ…」は雲と考えられ、それが「始まりは/いつも/終わりをたべている」のだと読み取りました。明るい色彩の中にも人生の不条理のようなものを感じさせる作品だと思いました。
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2003.12.10 |
東京都千代田区 |
<鮫の会>
芳賀章内氏 発行 |
500円 |
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君が代 大河原
巌
膝を――曲げい!
帽子を胸に最敬礼だ。
おれたち人間は馬鹿だ。
君が代の 君のために死んだ親たちが、昔おれたちを産み落とし、
やがて君は、おれたちを
君が代の赤子として靖国に葬るつもりだろう。
すりきれた神々よ、君は誰なのか
どこにいるか
なぜ君は、おれたちを もっと人間らしく生かしておかないのか
生きるって何だ
ついてまわる摂取と排泄
君が代の君よ、おれたち人間をこれほど手ひどく扱っておきながら
君は、現人神は、
おれたち人間の美しい体と威厳とを借りているに過ぎないことを
恥じたらいい
恥じたらいい
おれたち人間は馬鹿だ。
消費にあけくれて
いまや君の創造物は襤褸切れだ。
万世一系の神々よ 君が代の君よ、おれはこの世で、
君が代の赤子として靖国に葬られるのだけは まっぴらだ。
すり切れた神々よ、君は誰か
どこにいるのか
おれたち人間は、深い軽蔑をもって君を見下してやる。
そしてこれ以上、君が代の恩寵と大和魂について、おれたちに語るな
ここにおれはすわるぞ。
おれは、おれたち人間の似姿をもって人間をつくる。
あの世であったら承知しねぇぞ
膝を――伸ばせ!
帽子を投げて人間万歳だ。
(リンゲルナッツ「膝曲げ」のパロディー)
繰り返される「おれたち人間は馬鹿だ。」というフレーズに、妙に感激してしまいました。ホントだよな、なんにも進歩がないもんね、と思わず呟いてしまいました。「君のために死んだ親たちが、昔おれたちを産み落とし」た世代である私は、一番「馬鹿」なのかもしれないな、とも思います。「消費にあけくれて」、「深い軽蔑をもって」「見下」されるべきは私たちなのかもしれません。作者の意図は「君」への抗議なのですが、それはそのまま私たちにも跳ね返ってくるのではないかと考えさせられた作品です。
(12月の部屋へ戻る)