きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり

  kumogakure  
 
 
「クモガクレ」
Calumia godeffroyi
カワアナゴ科

2003.12.19(金)

 18時半から職場の忘年会。今回は泊りではなく日帰りでした。15時から日本ペンクラブの電子文藝館委員会も予定されていましたから、休暇をとって出席したあと忘年会に臨もうとしたんですけど、叶いませんでした。休暇がとれなかったのです。
 まあ、忘年会だけはこなしました。泊りではなかったのでちょっと忙しかったのですが、蟹づくしでお酒も呑み放題、良かったですよ。この忘年会で、来年の幹事長に私がなることが正式に決まりました。他の幹事3名もすでに指名してありましたので、これで来年の幹事会が正式に決まったことになります。やれやれ。一度はやらなければいけない役ですから、幹事も楽しめるイベントを考えていきます。そんな訳で、あまり酔えなかったなぁ。



  詩誌きょうは詩人9号
    kyo wa shijin 9.JPG    
 
 
 
 
2003.11.20
東京都武蔵野市
きょうは詩人の会・鈴木ユリイカ氏 発行
500円
 

    深海の魚    房内はるみ

   そとでは つめたい雨のなかに
   夏がしまわれていく
   花も絵画もない待合室は
   わたしには ひろすぎて こわい空間だ

   「こわくない?」
   となりの少女に声をかけたが
   彼女ははげしく首をふった
   彼女たちにあって わたしにないもの
   わたしにあって 彼女たちにないもの
   のために はられている いちまいのガラス板
   彼女たちのことばを否定してはいけない
   うなづいて 聞いているだけです
   白衣のひとは わたしに告げる

   ただ聞いていることとは
   同じように 深海のなかへ しずんでいくことだ
   心の底をやぶるようにして落ちていく海の底には
   宇宙よりも
   もっと大きな真暗闇がひろがって
   語らない 眠らない
   こんなにも たくさんの少女たち

   ことばにできなかったものが 石のようにかたまって
   キリキリになっていく身体
   ガラスのようなうろこ
   こわれそうな背びれ
   ふれることさえ こわくなる

   でも少女たち
   あたえられる愛なんて ほんのわずか
   信じるとは くらい海にとびこむことだと
   いつか 目をあけて わかってほしい

 第2連の「彼女たちのことばを否定してはいけない/うなづいて 聞いているだけです/白衣のひとは わたしに告げる」というフレーズや第4連を見ると「少女たち」とは精神的に傷を負った子たちではないかと思います。そこから最終連へとつながっていくのだろうと考えています。第1連の「そとでは つめたい雨のなかに/夏がしまわれていく」という魅力的なフレーズも、その前哨として効果的です。「わたし」の沈潜していく思いを、身をふりしぼって上昇へ変えていく、そんな思いが表出している作品だと思いました。



  詩誌『裳』83号
    mosuso 83.JPG    
 
 
 
 
2003.11.30
群馬県前橋市
裳の会・曽根ヨシ氏 発行
500円
 

    逢いたい    篠木登志枝

   雨にも風にも
   耐えていたのではない
   やさしく身を伸べて
   許していたのだろう

   サルビアの花に誘われて来た
   小さな公園の
   木のベンチ

   ペンキの剥げた木肌は
   陽の温もりをいっぱいに吸って
   老いていた 静かに

   もう長いこと
   訪れるものは
   隣の大木から零れる鳥の声
   抱きたいと思う願いは
   そのまま
   蔓草のように空へ伸びて

   その夜
   母の夢を見た
   うれしそうに
   歩いていた

 タイトルと最終連が呼応していて、とても良い作品だと思います。「木のベンチ」への見方もあたたかく、そこから触発された「母」への思いも無駄がなく、抒情詩の王道を行く作品と云えましょう。「老いていた 静かに」というフレーズも生きている作品だと思いました。



  中村不二夫氏詩論集戦後サークル誌の系譜
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新・現代詩論集 シリーズ2
2003.12.25
横浜市港南区
知加書房刊
1500円
 

    便所掃除    浜口国雄

   扉を開けます。
   頭のしんまでくさくなります。
   まともに見ることが出来ません。
   神経までしびれる悲しいよごしかたです。
   澄んだ夜明の空気もくさくなります。
   掃除がいっぺんでいやになります。
   むかつくようなババ糞がかけてあります。
   どうして落着いてしてくれないのでしょう。
   けつの穴でも曲っているのでしょう。
   それともよっぽどあわてたのでしょう。
   おこったところで美しくなりません。
   美しい世の中も、こんな処から出発するのでしょう。

   くちびるをかみしめ、戸のさんに足をかけます。
   静かに水を流します。
   ババ糞に、おそるおそる箒をあてます。
   ポトン、ポトン、便壷に落ちます。
   ガス弾が、鼻の頭で破裂したほど、苦しい空気が発散します。
   心臓、爪の先までくさくします。
   落すたびに糞がはね上って弱ります。

   かわいた糞はなかなかとれません。
   たわしに砂をつけます。
   手を突き入れて磨きます。
   汚水が顔にかかります。
   くちびるにもつきます。
   そんなことにかまっていられません。
   ゴリゴリ美しくするのが目的です。
   その手でエロ文、ぬりつけた糞も落します。
   大きな性器も落します。

   朝風が壷から顔をなぜ上げます。
   心も糞になれて来ます。
   水を流します。
   心に、しみた臭みを流すほど、流します。
   雑巾でふきます。
   キンカクシのうらまで丁寧にふきます。
   社会悪をふきとる思いで力いっぱいふきます。

   もう一度水をかけます。
   雑巾で仕上げをいたします。
   クレゾール液をまきます。
   白い乳液から新鮮な一瞬が流れます。
   静かな、うれしい気持ですわっています。
   朝の光が便器に反射します。
   クレゾール液が、糞壷の中から、七色の光で照します。

   便所を美しくする娘は
   美しい子供をうむ、といった母を思い出します。
   僕は男です。
   美しい妻に会えるかも知れません。

 本著はTにサークル詩関係、Uに関根弘と『列島』関係の詩論が収められています。現代詩の起源である敗戦直後の詩壇を考えるとき、『荒地』のみの視点ではなく『列島』からの視点も必要ではないかというのが著者の従来からの主張でしたが、本著では一歩進んでいます。今後の日本の詩を考えたとき、『列島』、特に関根弘や出海渓也の理論が必要なのだと説いていて、私には納得させられるものがありました。その理論をここではとても述べ切れない、要約すると真意を損ねかねないので書きませんが、ショックを受けています。何を書くか、どう書くかという根源的な問題です。5年、10年と詩を書いてきて、行き詰ったなと思っている人には是非読んでほしい論です。私自身の今後の書き方に影響を与えたと確信してます。

 さて、もう一方のサークル詩ですが、実は私も一時関わっていました。高校生の頃ですから1965年から68年のことです。全国的にはすでに衰退に入っていて、私が関わった静岡県御殿場市、沼津市でも、おそらく最後の世代だろうと思います。私の詩の出発はそこにありました。しかし、ある時「プチブルの詩ではなく人民のための詩を」と批判されて袂を分かってしまいました。プチブルの詩を書いているつもりはありませんでしたが、人民のための詩も書くつもりはなかったのです。その根源的なところも本著の関根弘・出海渓也理論で私なりに解決をみた思いがしています。

 紹介した作品は1955年度の「国鉄詩人賞」の受賞作です。かれこれ50年も前の作品ですが、まったく古さを感じさせません。もちろんこんな「便所」は今では存在しないでしょうが、JR職員の気持は今も変らないでしょう。むしろ世の中が変わって「便所を美しくする娘は/美しい子供をうむ」などと言える親がいなくなってしまったのが現実でしょう。サークル詩からこんな素晴らしい作品が出、現在の作品をも凌駕していることを考えなければならないと思っています。




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