きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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「クモガクレ」 |
Calumia
godeffroyi |
カワアナゴ科 |
2003.12.20(土)
高校のクラス会が御殿場高原ビール園でありました。同窓会は多いと思うのですが、クラス会というのは珍しいのではないでしょうか。今回が3回目で、私は2回目から出席しています。1回目は、私は行方不明になっていたそうで(^^;
案内状が来ませんでした。今回は初めてクラス担任の先生も見えました。
左の坊主頭の人が先生です。初めて知ったのですが本物の坊さんだったんですね。歳は64だそうで、私たちと10年しか違いません。隣に私が座っていたんですが、私の方が年上に見えるというのが同級生の弁です(^^;
今年の静岡県議会議員選挙で同じクラスから二人が立候補したこと、当然ながら片方は当選して片方は落選したことなどを初めて知りました。県が違うとそういう情報というのはまったく伝わらないものです。当選した同級生は出席していましたから、一番気になることを聞きました「政党はどこ?」。無所属だそうでホッとしました。所属政党によっては付き合い方を考えなければいけないと思っていました。いわば市民党だそうですから、協力できるところは協力すると伝えました、県は違うけどね。
このクラスで死亡しているのは2名。生存者51名のうち出席者は9名。ちょっと少ない気がしますが新潟、東京、横浜、札幌、愛知、仙台とバラバラになっていますから致し方ないことです。でも欠席の通知はちゃんと来ていたから、まあ、結束はあるほうかもしれません。まだ毎年続きそうですから、同じようにトシをとっていく連中を見ることになり、楽しみではあります。
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2003.12.20 |
大阪府豊能郡能勢町 |
詩画工房・志賀英夫氏
発行 |
600円 |
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父に 名古きよえ
夏のように暑い梅雨晴れだった
病人は腰や足の痛みを訴え
私は学校を休んで帰省し
ひとしきりさすった後
大黒柱にもたれて放心していた
庭のダリアが 光を受けて輝いていた
母屋の ほの暗い中から見ると
別世界のように
病人は
誰にともなく弱音を吐いた
私は打たれたようにふり返り
学校で習ったばかりの単語を
その人につぶやいた
――業しかないとおもうわ――
〔業〕とは日々行うこと と
学校で学んだばかり
私は業という深い意味が好きになっていた
病人は『業か そうか』とくり返した
私は分かってもらえたと安心し 嬉しかった
学校へ帰って一月もしないうちだった
硬い大黒柱だった
鶴が飛んでいったあと
弟たちは大学まで行けた
時々 風は
業と 私の耳にひびく
病人の苦しみが 十分にわかる年齢になって
耳が痛い
最終連が見事だと思います。「病人の苦しみが 十分にわかる年齢にな」らないと「業という深い意味」も判らないものかもしれません。「硬い大黒柱だった/鶴が飛んでいったあと」というフレーズは「父」が亡くなったと解釈してよいと思います。それにしても「『業か そうか』とくり返した」「病人」の深いやさしさが伝わってきます。「誰にともなく弱音を吐いた」ことへの忸怩たるものがあったのでしょうか。人の生き方を考えさせられる作品です。
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2003.12.20 |
千葉市花見川区 |
中谷順子氏 発行 |
非売品 |
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街角 池山吉彬
道を歩いていて
不意に 悲しみのようなもので
からだじゅう
真っ青になることがある
思わず立ち止まるが
いつものありふれた
街角である
なんだろうか あれは
なにかのはずみで こころの奥の
悲しみの細胞がいっせいに
整列するのだろうか
呼び子ひとつで
校庭にならぶ小学生みたいに
詩集『精霊たちの夜』より
「会員の新刊詩集から」として載せられていた作品です。「からだじゅう/真っ青になることがある」「悲しみの細胞がいっせいに/整列するのだろうか/呼び子ひとつで/校庭にならぶ小学生みたいに」と、たったこれだけの行に魅力的なフレーズの詰まっている作品ですね。さすがは巻頭に持ってきた詩だけはある、と思うと同時に千葉県詩人クラブの水準の高さを示した作品と云えましょう。県外の者にとって日頃は見ることのできない、こういう作品に接することができるというのも会報の良さだと思います。
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2003.12.14 |
千葉県東金市 |
玄の会・高安義郎氏
発行 |
1000円 |
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赤い涙 尾田愛子
太陽よ もっと明るくかがやいて
私の心を あたためてよ
もう何日も
体の芯まで凍り付いている
好きな梅やかえでの庭も
あなたがいての幸せだった
今はただの木々の枯葉
赤い涙のように
風にのったもみじが
空を飛んでいく
目も耳も失った泥のねむりに
フツと夫の吐息がきこえる
あなた 来ているのね
ねがえって やみの中で夫を抱いた
空気の重みもなかった
父君を亡くした「私」には「今はただの木々の枯葉/赤い涙のように」見えるというフレーズに感銘します。「ねがえって やみの中で夫を抱いた/空気の重みもなかった」という「私」の気持を思うと、その深い哀しみに胸を打たれます。経験はないものの、愛する者を失ったらどうなるのかと考え込んでしまいました。いずれ体験することなのか、いずれ「空気の重みもな」い状態になるのか判りませんが、避けては通れないこと。その時に作者のように詩として昇華できるか、大きな問題を突きつけられた思いです。
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