きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり

  kumogakure  
 
 
「クモガクレ」
Calumia godeffroyi
カワアナゴ科

2003.12.27(土)

 目覚めてブラインドを開けると、うっすらと雪化粧。初雪でした。でも、コンクリートの道にはまったく積雪がなく、畑の野菜や蜜柑の木に着いているだけ。ちょっとがっかり。車を運転するのに慎重になる位の雪は降らないものですかねぇ。

 今日は仕事納めです。恒例で午前中だけでした。来春早々の会議に備えた書面作りや、担当部署の見回りをしただけでアッという間に終ってしまいました。いつもならそのあと泊りの忘年会が控えているんですが、今年は先週日帰りでやってしまったので、それも無し。群馬の「榛名まほろば」から忘年会の誘いが来ていましたけど、グッと堪えて帰宅しました。この休み中にいただいた本を全部読んで、HPにアップして礼状を書こうと思っています。あと50冊ほど残っています。がんばるゾ(^^;



  黒羽英二氏詩集『須臾の間に』
    syuyu no aida ni.JPG    
 
 
 
 
2003.11.30
大阪府豊能郡能勢町
詩画工房刊
2000円+税
 

    須臾
      ――時は過ぎ行く――

   何よりもよいのは生れてこないこと
   とギリシャの詩人が言わなくても
   それは知れたことだ
   というのに不覚にもこの世に出てきてしまい
   地獄から地獄へと渡り歩き
   何とか逃げのびたかと思えば
   そこもまた地獄
   まったくブッダに聞かなくたって
   彼岸はすべて此岸にありってわけだったんだな
   七十路の半ばに道に迷って暗い森へ踏み込んだって
   ダンテは言ってるけど
   何が神曲なもんか
   当時のイタリアじゃ人生七十年と言われたらしいが
   信長が幸若舞やった時にゃ五十年て歌ったらしいんだ
   どっちみち須臾の間に消える露の命
   過ぎてみりゃホントあっという間だったよねえ
   残夢の中の死者たちよ
   今朝は纏めて囀り出したについちゃ
   そうか
   お迎えお迎え
   いつまでも取っ替え引つ替え相手変われど主変わらずで
   浮世の波にあっぷあっぷもがいてるもんだから
   見るに見兼ねたってわけなんだな
   靴下二足の手土産でだまされて満座の中で襲われたってのに
   先輩の後を慕って来たんだから
   同じ職場に雇ってくださいなんて飴なめさせられりゃ
   たちまちその気になって骨を折る
   これが三十年も悪たれ吐き続けられる羽目になるとはな
   おしえてくださいって言うからいろいろ知らせてやれば
   がまんして聞いてやったんだからこれからは好きにするぞ
   なんて手前勝手な無礼者め
   よくも言えたもんだ
   来るなって言うのにしつこく近づいてくる奴はみんな泥坊で
   利益を懐に入れりや御用済み
   とっとと消えろと満座の中で罵り続けるだけさ
   そんなこと百も承知だろうが
   まったくざまあないやね
   半世紀ものあいだ       
いき
   いやとっくにそれ以上もこの世で呼吸してきたんだから
   百年生きようが二有年死ななかろうが
   だから同じだって言うのさ
   いいかげんにしろよ
   たとえ二百年の寿を保ったとて
   二百一年日の一日目はどうするってなもんさ
   そうだろ
   汽車だって同じこと
   いくら軽便鉄道法で国から補助金が出るからって
   あっちの村こつちの町で
   日本全国北海道から九州まで
   あっちの地主こつちの店主に株券割り当てて
   
ニブロクナローゲージ
   七六二粍狭軌の上を
   コッペル社製のかわいい蒸気機関車に
   膝つき合わせなきゃ乗れない木造客車ごとごと牽かせて
   しあわせな気分盛り上げて
   金モールや月桂樹で飾ったゲートつきの開通祝賀式やったのも束の間
   早けりゃ五年長くて二十年で元の土へ還っちまうんだものな
   始めあれば終りあり
   玉電は道玄坂上から専用軌道を渋谷駅の低いホームへ坂を下って行き
   東京高速鉄道はたった八ケ月だったけれど虎ノ門から新橋駅へまっす
    ぐ入って行って停ったもんだ
   夏は重油で汚れた東京湾を嫌って京浜電車の赤い車輌の一番前へ齧り
    つく
   横浜駅を出る間ももどかしく右に左に掘割りすれすれに降ったかと思
    えば
   たちまちコンクリートスラブの高架線を駆け登ったところが平沼駅
   鉄骨の翼を大きく広げた短い対向ホームも嬉しかったが
   B29の空襲二十五回で千万の市民といっしょに横浜市から消滅しち
    まった
   残された鉄の肋骨は塗り継がれ
   アメリカ空爆のモニュメントになったのに
   東武鉄道隅田公園駅の運命とは天と地さ
   しばらくはへろべろの骨がらみの風体曝していたっけが
   今は跡形もない
   三月十日東京空襲計画殺戮十万人の死体の処理に困って
   公園敷地のあっちこっちに積み上げた屍体のボタ山
   この世の地獄の中で生き残った身を確かめたものだったが
   今じゃ春のうららの隅田川
   一体あの山はどうなったの?
   何よりもよいのは生れてこないこと
   だが生れてしまったからには
   できるだけすみやかにハデスの門をくぐり
   こんもり盛られた土の下に横たわること
   とはいえ土はもうどこにも盛ってなくて
   ベンチに無愛想な街灯が灯っているばかり
   ハデスの門をくぐっても
   還って行く土はない

 「須臾」はしゅゆ≠ニ読むそうです。浅学にして読めもしなければ意味も判りませんでした。「あとがき」には次のように書かれていました。

   あらためて須臾という語を調べてみると、古代インドの時間の単位で、仏典では漢
   字の須臾が用いられるが、一昼夜を三十須臾と為す、とある。いずれにせよ、暫
   時、しばしの間という意味であり、極く短い時間であることに変りはない。

 「極く短い時間」と考えてよさそうです。ところで詩集の中にはタイトルの「須臾の間に」という作品はありません。詩集全体が「須臾の間」のことを書いていると思って良いでしょう。そうは云っても、紹介した作品のように「須臾」という詩が巻頭に掲げられていました。内容はやはりこの詩集全体に関わるものですから、ちょっと長いのですが全行を引用した次第です。
 「不覚にもこの世に出てきてしま」ったからにはどうするか、「できるだけすみやかにハデスの門をくぐ」るのが良いのですが「還って行く土はない」。結論としては、しょうがないから生きていけ、でも「お迎え」が来たらさっさと行けよ、ということなのかなと思っています。リズムもあって、本質を突いたおもしろい作品だと思いました。
 なお、一部の促音が「つ」になっていますが、意図的なものと考え原文通りにしてあります。



  長嶋南子氏詩集『シャカシャカ』
    syakasyaka.JPG    
 
 
 
 
2003.11.29
東京都中央区
夢人館刊
1800円
 

    雨天

   雨降りなので
   よそのご主人を借りにいく
   よりそって窓の外をながめ
   雨のおとを聞き
   しみじみする

   お茶をいれましょう
   まんじゅうなんかどうですか
   借りものはたいせつに扱うこと
   傷をつけてはいけません
   用がすんだら
   すぐに返します

   このままずっと雨降りだったら
   よそのご主人が
   うちのご主人になって
   たいせつでもなんでもなくなって
   場所ふさぎになって
   しみじみ話すこともなくなって

   雨が降り出したら
   借りにいく
   用があるときだけ
   借りればいい

 タイトルの「シャカシャカ」という作品はありません(長嶋さんのことだから釈迦釈迦かと思ったら、それもなし(^^;)。フレーズに「シャカシャカ」を使った作品はありましたが「あとがき」に書かれていた次の言葉が詩集全体を指しているのだと思います。

    子どもが出ていき、親の介護、連れ合いの死、自分の老後、となにもかもいっ
   しょくたんにやってきた。息つくひまもないくらいだ。
    シャカシャカ動きまわっている。せっかちな性分もあるけれど、じっとしてい
   られない。別の私がもっと落ち着いて、あるがままを受け入れろと笑っている。

 その「あるがまま」のひとつの形が紹介した作品なのかもしれません。第3連には思わず我が身を振り返ってしまいました。「たいせつでもなんでもなくなって/場所ふさぎになって/しみじみ話すこともなくなって」しまうのはよく判りますね(でも、なんでなんだろう?)。この背後には「連れ合いの死」があるのかもしれません。表面は明るく陽気で、斜に構えたところがあるのですが、その背後を考えながら読むと、もっと深いところを要求されているようにも思います。一筋縄ではいかない詩集です。



  豊福みどり氏詩集『日が落ちる時刻』
    hi ga ochiru jikoku.JPG    
 
 
 
 
2003.12.25
東京都東村山市
書肆青樹社刊
2200円+税
 

    日が落ちる時刻

   私の生まれた家は
   昔とちっとも変わらずに
   古い石垣の上にある
   不揃いの石の上に建つ
   その家で
   母は一人で暮らしている
   四人の娘を産んだので
   四度のつらい別れをし
   今は一人で暮らしている
   こわれた屋根の修理をし
   痛んだ腰の治療をし
   小さな歩幅になって歩いている

   初夏の頃
   風通しの良いその家で
   一人そうめんを茹でながら
   鼻歌などを歌っている
   友達が訪ねて来ると
   くったくのない顔で
   笑いころげているけれど
   日が落ちる時刻には
   きっと
   部屋の隅の大きな孤独と
   向かい合っていることだろう

   遠い地に住む私は
   沈む夕日を見ると
   そう視
(み)えてくる

 詩集のタイトルポエムです。「日が落ちる時刻には/きっと/部屋の隅の大きな孤独と/向かい合っていることだろう」というフレーズが見事ですし、「沈む夕日を見ると」にうまくつながっていると思います。
 驚いたことに第一詩集です。これだけのものを書けるがまだ詩集を出していなかったとは思いもしませんでした。「種を蒔くと」「役員選び」「寒い日」「老い」「女」などは特筆すべき作品だと思います。新しい詩人の出現をお祝いし、今後のご活躍を願ってやみません。



  個人誌『風都市』10号
    kaze toshi 10.JPG    
 
 
 
 
2003.初秋
岡山県倉敷市
瀬崎 祐氏 発行
非売品
 

    作品]    瀬崎 祐

   週末の夜に あなたのもとに差出人が不明の手紙が届
   く
   ダイレタト・メールの類を装っているが その手紙の
   内容は「作品]」と称するものについての紹介である
   作品]が包含している世界の複雑さは他に類を見ない
   ものであり この手紙の目的は作品]の存在をあなた
   に知らせることである と
   さらには ぜひ 機会を見て作品]を一読していただ
   きたい と

   そのようにしてあなたは作品]のことを知る そして
   あなたはその手紙の差出人のことを考える しかし
   その手紙は実際に存在したのだろうか
   手紙が届いた と書かれており 手紙の内容も記され
   ているが あなたがその手紙を読んだ記憶は欠落して
   いるはずだ 私が記したこの文章の中で 「あなた」
   と呼ばれた人物が あたかも手紙を読んだように記さ
   れているだけだ
   そうであるならば その手紙についての記述を読んで
   いるのは 誰であろうか
   そもそも 私が「あなた」と書くとき その「あなた」
   はこの文章の中にのみ存在している「あなた」なのだ
   ろうか それとも 実際にこの文章を読んでいるあな
   た自身が「あなた」なのだろうか

   すでにあなたが気がついたように 「作品]」と題さ
   れた作品とはこの文章自体のことである 作品]を紹
   介すること自体が「作品]」である
   あなたがその作品の名前を叫び あなたが作品]の存
   在を求める そのようにして 真の作品]はあなたに
   読まれることにより はじめて存在を始める

 ちょっと難しい作品ですが「あとがき」には次のように書かれていますので参考にしてみましょう。

    今回の「作品]」についての補足。二人称で書かれている作品と言えば、まずミッシェ
   ル・ビュトールの「心変わり」が思い浮かぶ。日本の作品では倉橋由美子の「暗い旅」か。
   二人称で書かれた作品では、必然的に作品の登場人物と読者との混同が生じる。また、作
   品の中で書かれた作品という、いわゆる入れ子構造を利用した作品は、一般にアンチ・ミ
   ステリーと言われる分野で見かける。例えば中井英夫の「虚無への供物」、竹本健治の「ウ
   ロポロスの偽書」。書かれた文章を、読むという時間軸に沿った行為でしか体験できない
   読者は、作品と作品中作品の間で迷路に踏み込むのである。どちらの手法にも「書かれた
   もの」の本質的な落とし穴を利用するような魅力を感じる。

 なるほど、そういうことだっんですね。最終連でそれらしいことをうすうす感じてはいましたが、そこまでは思い至りませんでした。知的な部分を刺激するおもしろい作品だと思いました。




   back(12月の部屋へ戻る)

   
home