きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり

  kumogakure  
 
 
「クモガクレ」
Calumia godeffroyi
カワアナゴ科

2003.12.31(水)

 今日で2003年もオシマイ。恒例(?)の今年紹介した詩書等の状況を見てみます。

        詩集等   詩誌等   合計
    1月   9   39   48
    2月   9   25   34
    3月   15   31   46
    4月   17   37   54
    5月   14   41   55
    6月   6   46   52
    7月   12   48   60
    8月   15   29   44
    9月   14   26   40
    10月   16   34   50
    11月   17   35   52
    12月   24   47   71
    合計   168   438   606

 月平均50.5冊。詩集等は27.7%、詩誌等は72.3%。詩集等は6月が極端に少なくて12月が最大、詩誌等は2月・9月が少なくて7月と、やはり12月が多いですね。だから何だ、ということになりますし、これが日本の全体を表しているわけでもありませんから、まあ、ご参考までに。
 皆さん、高いお金を使った詩書を、高い送料をかけて送っていただいてありがとうございました。お陰さまで勉強させていただきました。来年もよろしくお願いいたします。



  平野 敏氏詩集『聖声の韻』
    seisei no hibiki.JPG    
 
 
 
 
2004.1.1
埼玉県入間市
私家版
非売品
 

    個室

   どなたにもあって
   まどろみのうちに宇宙へと膨らむ
   秘められた暗いカプセル
   太陽系に位置しているときは
   日向日陰に気分も変わり
   夜長の憂欝鼻を垂らして脳を裂いて
   歯痒い政治に救いの手立てを求めても
   響かない鐘のように
   鈍重にただ垂れ下り
   ひとりの為に鳴らす鐘ではないのだと
   煩悩はひとりの問題なのだと
   その道には生きる意議を説く議会もなく
   まつりごとは祭りの空賑わいのなか
   議論と理念は声高に流れ去り
   この国の興亡のひと声
   議会という個室で錬るられ練られて
   いつの日か陽昇る国が立つのを
   まどろみのうちに
   夢菩薩が運んでくるであろうかと

   燃える弧室もあって
   人生いち度は火達磨になって
   迷いの輪を廻しながら
   宇宙を走り    
・・・
   どこかにあるはずのとぐろ巻く星の彼方へ
   燃焼の果てしない受苦の火の粉を散らばせて
   恋を走らせ
   あの人を光らせ
   私も光ながらサクセスして
   火を銜
(くわ)えて火の手品に死す
   ひとりの死は尊厳に終わるが
   多数の死は記憶のなかで燃え続け
   死なないままに生は終わることもある
   また逢えるならば
   あの人も配られた火を吐いて
   孤室で悶えながら
   夢違い観音の姿を待つのであろうかと

   機械類に囲まれた個室で
   病いを治すのだと
   恐怖を睨みながら我満に耐える
   私が波の形であるとか
   私が水を揺する空気であるとか
   眼には定かでない私という存在の形象は
   文明という壊れていく機器に記録もされず
   刹那をただ動いているという現象を
   仮の生と設定して     
・・
   それから先は言霊のさぶらううたが流れるなか
   癒しにかかる呪術に満ちて
   私を幽かな遠い惑星では死とは呼ばない非在にして
   こちらの星に輝きを置きながら
   薬物が毒になったり薬になったり
   私を傷めつけるのを防戦する
   個室という証人なき機密を犯されもしたら
   口にくわえたマスクを通して死の矢を放つ
   私の星がやがて消えるその前までに
   この個室の宇宙に星の輪型に苦汁の塊を編みながら
   如意輪女神の宝冠に私の生を搭せて輝くのを
   静かに待つのであろうかと

 ちょっと硬質な作品ですがイメージは伝わってきますね。「個室」と「孤室」の対比、「歯痒い政治」は「響かない鐘のよう」だと表現するところ、政治にとって「煩悩はひとりの問題なのだ」と切り捨てられてしまうところなどはおもしろいし、鋭い視点だと思います。最終的には「機械類に囲まれた個室」に落ち着いてしまうのですが、「如意輪女神の宝冠に私の生を搭せて輝くのを/静かに待つのであろうか」とするところは見事だと思います。諦念などというものではなく、むしろ積極的なものを感じると言ったら深読みし過ぎでしょうか。良質な詩篇に圧倒される詩集です。



  詩誌『光芒』52号
    koboh 52.JPG    
 
 
 
 
2003.12.13
千葉県茂原市
光芒の会・斎藤正敏氏 発行
800円
 

    密使    みきとおる

   この人は僕を生んだ人だという
   そういえばたしかに
   やわらかな乳房をにぎった指先のぬくもりが
   記憶の深い底にうっすらと漂っている

   しかし
   僕を創ったのは「あの人」だと人はいう
   なぜならば
   この世界のすべては「あの人」が創ったという

   この人も「あの人」が創ったに違いない
   僕を生むために
   僕の成長を観察するために
   この人は「あの人」が創った不気味な使いなのだ

   でなければ
   こんなに気味悪いほど僕を可愛がるはずがない
   こんなにひどく僕を叱るはずがない
   こんなに僕のすることをじっと眺めるはずがない
   こんなに僕の身体をじろじろ調べるはずがない

   夜
   「あの人」は僕を眠らせる
   この人は急いで使者に変身し便りを告げに行く
    身体はすこしひ弱です
    頭脳はまあ順調に動いています

   またある夜
    身体はますます虚弱になっています
    知能は次第ににぶってきました

   またある夜
    健康はかなり改善されましたが虫歯だらけです
    脳細胞は貴方の設計図どおりには成長していません
    失敗作かも知れません
    そろそろ貴方の苑
(くに)から追放するときのようです

   僕はあくびをして目をこする
   窓に小鳥がさわやかな唄を置いてゆく
   ほら
   この人がまた変身して僕のそばにやってきた
   母親の顔をして

 「母親」は「あの人」の「密使」だという発想がおもしろいですね。「失敗作かも知れません」と「僕」を貶めていることも読者としては好感を持って読むことができます。「あの人」をいろいろと読み替えることも可能でしょう。国家≠ネんて読み方にしたら深読みでしょうか。個人がどうやって生かされてか、そんなことも考えさせられた作品です。



  月刊詩誌『現代詩図鑑』第2巻1号
    gendaishi zukan 2-1.JPG    
 
 
 
 
2004.1.1
東京都大田区
ダニエル社 発行
300円
 

    のうなる    高木 護 (たかぎ まもる)

   ちっとじゃったが
   させてもらよったしごとも
   とうとうのうなってしもうたけん
   おら、これでおしまいじゃろうか
   かたずかにゃいかんとじゃろうか
   このようからのうならんといかんとじゃろう
    か
                <方言の詩から>

 高木さんの作品は他に「さでこける」「ふ」の2篇が載せられていて、それもとてもおもしろいのですが、意味が判りませんでした。タイトルからして「さでこける」を頭の中で漢字に変換できないし、「ふ」は腑なのか麩なのか、本文をいくら読んでも判りませんでした。残念。
 で、もう1編の作品なら判るゾ、ということで紹介する次第です。無粋ですが、ちゃんと読めてるか確認のため漢字交じりに変換してみます。

    無うなる

   少っとじゃったが
   させて貰よった仕事も
   とうとう無うなってしもうたけん
   おら、これでお終いじゃろうか
   片付かにゃいかんとじゃろうか
   この世から亡うならんといかんとじゃろう
    か

 ちょっと強引な変換ですが、多分合っていると思います。どこの方言か判りませんが、おもしろいくてちょっとギクッとしますね。「かたずかにゃいかんとじゃろうか」は受動態ではなく能動態ですよ。この、自分から居なくなる、というところに素朴な方言人の真髄を見る思いがします。俺が俺が、と自己中心の都会人よ、声に出して読んでみて!



  水口洋治氏詩集『僕自身について』
    boku jishin ni tsuite.JPG    
 
ポエム・ポシェット No.14
2003.12.10
大阪市北区
竹林館刊
800円+税
 

    ぷろろーぐ

   まぶたがさがり
   真珠色に まぶたがさがり
   軽く肘をつきながら ぼくのことを考える
   遠い野 美しい原っぱ
   そんな所に ぼくはいなかったと

   日に褪せた板戸は
   ぎしぎしのガラス戸に 変わったけれど
   ぼくの家は
   決して ガラスのお城ではなかった

   長い間 つづいたおかゆ
   十枚食べても 満腹できなかったパンのへた
   食べるために 母は働き 残業し
   内職の夜は ぼくにはただ珍しかったけれど

   生まれたばかりのぼくと 母とを棄てて
   アメリカに帰っていった父の話
   それは十二の年の夜 母がぼくに語った話
   ふとんの中で泣きながら寝入ってしまったぼくだけれど
   茶色の髪を持ちながら 自分が混血児であることから
   無意識のうちにも逃れようとしたのが
   ぼくではなかったか

   まぶたのうちに
   そういうぼくが浮びあがる
   目の前の現実を忘れて
   ありもしないお城に住まおうとしたぼくが
   真珠色のスクリーンに 浮びあがる
   苦い涙が 口の中にひろがる
   手もとの現実を おろおろ声のぼくを
   貧しい家計を ぼくはしっかり 見なければならない
   何にもまして
   ぼくは見つめねばならない

 正直なところ、水口洋治ともあろう詩人がずいぶんと安直な詩集のタイトルをつけたものだなと思いました。しかし、読んでみて驚きました。この詩集は第一詩集の文庫化だったのです。しかも書かれたのは1963年から1968年3月23日までの5年間のもの。中学3年から大学入学直前の19歳までのものでした。それならば当然「僕自身について」考えなければならない年代です。

 初版はおそらく1968年、ガリ版で200部印刷した、とありました。その後1975年に再版され、今回の文庫化に至ったようです。著者は私より1年先輩になりますから、大阪と関東の違いはあれ、ほぼ同じ社会現象に遭遇したことが作品から読み取れます。原爆をうたった「六日と九日 作品九」、「いまも 作品一四二」「原爆の恐怖による滅亡の不安を主題としながらも安易なたいくつしのぎにしかすぎない作品 作品一六九」「鎮魂 作品一八〇」などにそれを感じることができます。
 それにしても、その早熟さに驚きます。私もその頃から詩らしきものを書いていて、印刷した詩集にはしませんでしたが原稿用紙を綴じた限定1部のものを2回創っていますので、それを念頭において読むと彼我の違いを思い知らされました。

 紹介した詩は詩集冒頭の作品です。なぜ詩を書くかという、まさに「プロローグ」として相応しい作品だと思います。この詩集の中では技巧的にも思考の深さでももっと優れた作品がある(例えば前出の「作品一六九」)のですが、私自身も初めて見た作品ですし、おそらくなかなか読者の眼に触れる機会がないのではないかと思い、あえて紹介させていただきました。水口洋治詩研究には絶対に外せない1作です。

 それにしても、ある部分では似たような道を辿るのだなと思います。表面的ですが「十枚食べても 満腹できなかったパンのへた」「内職の夜」なんて、今ではなつかしい気にさえしています。違いは、何度も書きますが作品の技巧と底の深さ、浅さです。10代後半でこの位の詩が書けていたら、私ももう少しマシな作品を創れるようになっていたかもしれません。




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