きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり

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1990.5.6
長野・五竜とおみ上空

2004.1.6(火)

 昼メシのときに、つい2時間ほど前に先輩が亡くなったと同僚から聞いてショックでした。彼は昨日・今日は休みで、自宅で倒れてすぐに亡くなったそうです。心不全だったようです。歳は私より三つ上、暮に話をしたばかりでした。
 実は1日にも他の職場の人が初参りのバスの中で亡くなったと、きのう聞いたばかりでした。歳は41歳。心筋梗塞だったそうです。その彼と一緒に仕事をしたことはあまり無かったのですが、お互いに合えば挨拶を交わす仲でした。それでショックを受けていたのに追い討ちをかけられたような気持です。何千人も在籍している工場ですから、年間に何人かは亡くなりますけど、こう、知り合いが続くと気が滅入ります。
 そんなわけで、午後から仕事に身が入らず、17時ちょっと過ぎに退社してしまいました。人間の運命を考えこんでいます。明日は我が身と思って、悔いのない日々を送るしかありませんね。



  詩と評論・隔月刊誌『漉林』117号
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2004.2.1
東京都足立区
漉林書房・田川紀久雄氏 発行
800円+税
 

    遊園地にて    池山吉彬

   遊園地のジェットコースターの前には
   赤と白に塗られた
   バーがある
   坊や 残念ながら
   ここまでだ
   ホラ  このバーの高さに
   君のかわいい頭蓋骨がとどくまで
   君は空を翔けることができない

   むかし
   ポーランドのワイコフという町の近くに
   こんなバーが置いてあった
   一一〇センチほどの高さの
   薄汚れたバーの下を
   たくさんの子供たちが
   両親と別れて くぐって行った
   残念ながら  坊や
   この地上で働くには
   君はまだ若すぎる

   遊園地の赤と白の
   バーの前で
   子供たちはべそをかく
   坊や
   いつか君も知るときがくる
   秋空に君が流したようなくやし涙を
   一度も 流すことなく
   ガス室へ消えていった
   子供たちのことを

   坊や
   いっぽんのバーは
   天と地を分けているだけではないのだ
             (詩集「精霊たちの夜」より)

 「遊園地」にはほとんど行かないので記憶が曖昧ですが、そういえば「ジェットコースターの前には/赤と白に塗られた/バーがあ」ったような気がします。あれで乗れる子乗れない子を分けているんですね。それならばいずれ乗れるから良いのですが、「ポーランドのワイコフという町の近く」のバーは浅学にして知りませんでした。しかも「働くには/君はまだ若すぎる」からと助け出されるのではなく「ガス室へ消えていった」とは! 「天と地を分けているだけではない」バーを平然と使う人間のおぞましさに戦慄を覚えます。改めて浅学を恥じた作品です。



  田川紀久雄氏著『詩語りの現場報告・V』
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2004.1.20
東京都足立区
漉林書房刊
1800円+税
 

 詩の朗読はそれほど好きではないのですが、たまに自宅でやってみたり、何度か朗読会を開いたり参加したこともあります。その度に思った通りにいかず悩ましいものですが、本著を読むとその原因が分るに思います。自らの行動を詩の朗読≠ニ呼ばず「詩語り」と規定する著者の、エッセンスを拾い出してみます。

    詩を活字だけで追っていくのと、声を出して何度も読み込んでいくのとは、まったく異なっ
   た様相を呈するものである。単に、傍観者でいるわけにはいかない。ある意味で、
事件の共犯
   
になるようなものだ。「香野広一詩集「優曇華」詩語りメモ」

    詩人の朗読を、聞いていて
「あれは拷問だね」という声をよく耳にする。客観化されない自
   作詩の朗読ほど惨めなものはない。その上に、詩人は朗読の訓練が嫌いと来ている。これでは
   お話にならない。詩人が、詩人の朗読を聞いていて朗読が嫌いになるのも当たり前である。だ
   から本音では、誰でもが詩人の朗読など好きではないのだ。パーティーでの酒の肴にしかすぎ
   ないと思っている。「詩の朗読論について」

    荒川の土手に出て詩語りの稽古をしていると、ゴルフ禁止の場所なのに、打ちっぱなしの練
   習をする人がいる。注意をしていないと身体に当たることもある。昔なら親子でキャッチボー
   ルなど行う光景もみられたが、今はほとんどみることもなくなった。
    
このゴルフの打ちっぱなしは、いまの詩人の朗読に似ているように見える。朗読をしてい
   てもお客との対話が出来ないでいる。おじさん危ないから止めてください、と言うと「お前に
   言われる筋合いはない」という始末である。「朗読は人と人との対話の中で」

    
声は言葉の裸形を求めている。テクストをそのまま読んだからといって詩の朗読になるとは
   思わない。意味だけをもとめるなら、テキストを黙読すればよい。
    いま、詩人たちの朗読のほとんどがテキストに沿った朗読方法である。それゆえ、朗読の面
   白さも深さも感じられない。テキストと声が対峙することなくその場を素通りしてしまうので
   ある。「いまは出前詩語りだけです」

    今の詩人たちの朗読を聴いていると、
たんなる素材をお客に出しているに過ぎない。材料に、
   塩または砂糖、コショウなどの調味料を加えていない。生野菜だってドレッシングをかけたり
   する。素材(詩作品)が飛びっきり優れたものなら、ある程度聴くに耐えられることもある。
   (中略)
    詩人の集会で行われた朗読会で、
その後の反省会がほとんど行われないことも、朗読の進歩
   をさまたげる原因の一つに上げられる。もっともっと朗読に関して詩人同志が話し合うことが
   必要ではなかろうか。「どうせはなしてもしょうがない。みんな趣味でやっているのだから批
   判されたくはない」という気持が先にある。だから他人の朗読にも、自分の朗読にも無関心で
   ある。そのほうが嫌な思いをしないからでもある。これが詩人の集会で行われる朗読をつまら
   ないものにしてしまっている。「個性的な朗読を」

 重要だと思うキーワードを赤くしてみました。まったく耳が痛いお話です。数少ないけれど自分のやってきたことを考えると、まったくその通りだと思います。
 著者の朗読に関する論は、これまで何度も拝見してきましたが、新たな発見がありました。「反省会」です。確かにやったことはありませんね。やったらやりっ放し。これでは進歩するわけがありません。大いに反省しました。私自身はこれからも朗読をする気はあまりありませんけど、もしやったら、今度は絶対に「反省会」を持とうと思います。勉強させられました。




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