きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり

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モンガラカワハギ
新井克彦画
 

2004.2.13(金)

 製品にトラブルがあって、4時間ほどを費やしてしまいました。製造現場の担当者とその上司、たまたま私のもとを訪れてきた営業担当者も巻き込んで、ああでもないこうでもないとやっていました。最終的には本当の原因に行き着いたと思っています。
 現場の二人からは、もうこの辺でいいんじゃないか、勘弁してくれと何度も言われましたけど、私は譲りませんでしたね(^^; 先が見えていたのです。解決するための難問が二つあったのですが、ひとつはすぐに判りました。現場担当者は自分の責任だから混乱していましたけど、客先に報告する責任を負っている私は冷静でしたからね、事実をひとつひとつ積み上げてみて判ったのです。そのとき、ああ、これは解決するなと思ったのです。長年そういう修羅場をくぐってますから直感でそう思えるのです。
 しかしもうひとつの関門は厳しかったです。どう考えても説明がつかない。そこに営業担当者が登場しましたから、さっそく客先に問い合せてもらいました。その結果、客先の情報があいまいだったことが判明して一件落着。ヤレヤレです。

 そんな訳で技術屋としての気分はスッキリしたのですが、品質保証担当者としてはこれからが大変です。現場に報告書を書いてもらって、それを客先に提出する文書に直して、ごめんなさいを言いに行かなくてはなりません。幸い、改善方法もすぐに判りましたからそれも説明すれば納得してもらえると思うのですが、改善に掛かる費用と時間を考えると、ちょっとね。金の問題ではなく信用の問題ですから、会社としては当然出費しますけど、勉強代としては高いなぁ。個人の懐が痛むわけじゃないけど、そんなふうに考えていきたい、考えてもらいたいと思うのです。



  詩誌『馴鹿』35号
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2004.2.10
栃木県宇都宮市
tonakai・我妻 洋氏 発行
500円
 

    廃園    和気勇雄

   冬ざれた風景のなかの廃園で 喉白き茶褐色
   の名も知れぬ小さき鳥が甲高く啼いています。
   それは淋しさに耐えかねて発したようにも
   時空を切り裂くようにも聞こえてきます。
   見上げると梨の木にとまっています。その木
   の枝は小鳥を止まらせて置くには十分ですが
   枯れて今にも折れそうな風情です。百本ほど
   の木々はいずれもそのような呈をなしていま
   す。
           ○
   老いた主が病を得て この梨園の手入れが思
   うに任せなくなってから十年ほどになります。
   主がこの廃園を過ぎるとき おそらく なん
   の感慨もなく通りすぎるのでしょう。しかし
   ときには 目を背けることもあったのではな
   いでしょうか。または じっと見入ったこと
   も。
   春には枯れ枝に可憐な白い花を僅かばかり咲
   かせていたそうです。夏には小さな実をつけ
   ていました。でも いつの間にか堕ちてしま
   いました。農薬を散布しなかったので害虫に
   甘い汁を吸われてしまったのでしょうか。
   廃園で生命感に溢れていたのは 夏から置か
   せてもらっていた私の蜜蜂だけでした。
   彼女たちは何種類の花を訪れたでしょうか。
   秋は近くのそば畑一面の花の蜜にのどを潤す
   ことができたはずです。蓋を開けると蕎麦の
   香がぷんと鼻を突きました。
          ○
   廃園を想うと そこは不思議な場所と化して
   ゆきます。総てのものの物質感が抜け落ちて
   今まで観たことのない不条理な映画が始まり
   ます。
   春は花の匂いで噎せ返るようです。蜜蜂たち
   は日差しを浴びて金色の弾となって飛び交っ
   ています。
   梨の実のさびさびとした色合いと触感は秋そ
   のものです。秋は春も夏も冬も蔵にしまって
   いるように思えます。
   梨の実も花の香を秘め 夏の陽光を甘い果汁
   に換えて自らの安息と希望の重みに耐えてい
   ます。
   このドラマは急展開を遂げていまに至ります。
   枯れた枝は風に振られ ところどころで枝の
   乾いた折れる音が聞こえてきます。その枝は
   臨終の叔父の点滴の痕が残る細い紫色がかっ
   た褐色の腕になっています。
   叔父は死神から逃れようとして もがき苦し
   みながらも腕を振って退散させようとしてい
   たのでしょうか。
   あるいは 早く来て欲しくて おいでおいで
   をしていたのでしょうか。

 「廃園」を舞台にした「老いた主」と「私の蜜蜂」の牧歌的な風景が「臨終の叔父」へとつながっていく、まさに「ドラマは急展開を遂げ」る見事な作品だと思います。淡々と書かれていますが詩句としても行き届いていて、「春には枯れ枝に可憐な白い花を僅かばかり咲/かせていたそうです。夏には小さな実をつけ/ていました。」という伝聞と断定の遣い方も心憎いですね。「秋は春も夏も冬も蔵にしまって/いるように思えます。」という喩にも魅了されました。「私」が養蜂家というのも珍しく、なかなかお目に掛かれない作品ではないでしょうか。



  隔月刊詩誌『鰐組』202号
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2004.2.1
茨城県龍ヶ崎市
ワニ・プロダクション 仲山 清氏 発行
400円
 

    みかん説    福原恒雄

   甘酸っぱい感情を探しているのかい。

   ふくろ粒をつぎからつぎへとまめに摘まみ
   頬ふくらませ、
   真顔もふくれて
   好きだから好きなんだと もそっと。
   ついでのように
   連中のポケットからとび出る正義には飽きたと
   唸る
   眉間の皺、

   それ
   やけじゃないよね。
   思い描く昨年や一昨年やもっとまえの
   山川草木のすべてをつぶされ
   灼けるオレンジ色の夏を
   希望のようにしゃぶった蒼白の面がまえも、
   きな臭い土壌を彷徨った裸足も、
   夏過ぎても
   もがいていた手のことを 知ってるだろ

   かぞえる目が追いつけない苦痛を
   夢に溶かすのは机上の本懐だろうが
   歴史の生理が濁っているのも ついでのこと
   思いだしたら、
   よいしょ
   腰をのばして
   みかんを
   空の色に
   置いてみようか。

   ふしぎ なんて笑いの気分にはなるまいよ。
   そうっと風が起こる
   忘却の音が
   逃げていった
   あとに、
   一個の影から転がり出た未来は泣きべそでも
   おれらの面がまえに歯を食いしばってやって来る

   これ
   甘酸っぱいねえ、でも… ほんとに探してるの

 俗な読み方ですが「甘酸っぱい感情」を青春の感情≠ニいうふうに解釈してみました。そうすると「灼けるオレンジ色の夏」「きな臭い土壌を彷徨った裸足」は敗戦の夏と理解することができます。その体験から現代を見ている詩ではないかと思います。
 「飽きた」とは云え「連中のポケットからとび出る正義」を一度は認識したはずなんだけど、現在は「忘却の音が/逃げていっ」てしまった。「歴史の生理が濁っている」のはいつものことで「未来は泣きべそ」なんだけど、「歯を食いしばってやって」いた時代があったはず。それが今はみんな無くなってしまった…。中にはそんな昔の「甘酸っぱい感情を探している」という人、あるいは自分がいると云うんだけど、「でも… ほんとに探してるの」?

 ちょっと強引ですがそんなふうに読み取ってみました。「みかん」はひとつの時代の象徴だろうと思います。こんなに果物が豊富に出回る前には、庶民の果物といったらみかんぐらいでしたからね。それを背景にしていると云えましょう。だから「みかんを/空の色に/置いてみようか。」というフレーズも活きてきます。社会性の高い作品と言っても過言ではないでしょう。




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