きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】
モンガラカワハギ | ||
新井克彦画 | ||
2004.2.18(水)
終日、化学物質の構造式と取り組んでいて、ようやく終わりました。しかし、それにしても化学物質の名称というものは難しいものだと思います。私の力では構造式から日本語の名称に変換できないので、大学で専門にやってきた社員に問い合せたのですが、彼にも無理だそうです。確かに『化学物質命名法』という本があるくらいですから、簡単にはいかないでしょうね。
今回は日本語名称が判らなくても良かったのでオシマイにしましたけど、今後名称まで必要になったら恐怖です。まあ、そのときは専門家に任せるしかないでしょう。ピンチヒッターとして出来る範囲には限りがあります。でも久しぶりに化学の勉強になって、いい機会でした。
○個人誌『むくげ通信』20号 |
2004.2.1 | ||||
千葉県香取郡大栄町 | ||||
飯嶋武太郎氏 発行 | ||||
非売品 | ||||
パゴダ公園 飯嶋武太郎
一九四八年十二月
ソウルに留学でもするかのように
或いは ふらりと族でもするかのように
たった一人で南へ来た十八歳の少年が
空腹をかかえてパゴダ公園を放浪(ある)いていた
孤児ではないが孤児の身の上で
頼る当てもなく彷復っていた
いつも空腹だった少年は同郷の詩人具常を訪ねた
まだ中学生だった頃 故郷の元山で起きた
凝香詩集事件以来の再会だった
越南したものは越南したもののみが知ると
うどんを二杯おごってもらったのが嬉しかった
具常によって新聞に「門風紙」が掲載されたのが
初めて活字になった作品だった
南へ来てようやく詩に生きる活路を見出した少年は
故郷への断ち切れぬ思いを胸に秘めつつ
小学校教師 軍人 放送局員 銀行員 大学教師
と職を転々と変え糊口をしのいできた
いつでも帰れると思い渡って来たはずが
あれから五十五年が過ぎても
貧しい政治が故郷への道を閉ざし
いつしか白い雲が頭を覆っている
一九七〇年七月
ソウルで開かれた国際ペン大会
夏の日差しが差し込む朝鮮ホテルのロビーで
ほんとに偶然 北川冬彦と会ったことから
しばしば日本を訪れるようになった詩人は
ユーモアあふれる巧みな話術と
その涙ぐましい体験が日本詩人の心を揺さぶり
「わがソウルの兄」と慕う女流詩人や
衛星のように取り囲む詩人が雲霞の如く集まり
多くの同人誌にその名を刻んでいる
一九九一年五月
台湾の笠詩杜の大会に参加したとき
日月潭でお会いしたのが初めてだった
短パンを穿いて飄々と息子さんと歩いていたが
いつの間にやら同じ写真に写っていた
写真を送ると日本語の立派な礼状が届いて感激した
一九九五年八月 台湾でのアジア詩人会議
台湾留学中の息子さんが講演の通訳をすると
「親子でやるから親子どんぶりだ」
と笑わせたのを私は遠くから眺めていた
その年の暮れ 白石かずこ監修金光林詩集出版記念
会が新宿で催されたとき
「日本人に私の詩集あげるのあなたで二人目です」
とハングル詩集を頂いたのが縁となって
目の前で緊張しながらへたなハングルを朗読したり
お忙しいのも憚らず拙訳の校閲をお願いしたりもし
ているので 私には
「わがソウルの師匠」と言っても言い過ぎではない
読みこなすには甚だ速いけれど
いただいた詩集やエッセイ集には
お得意の風刺やユーモアを交えていても
悲愴に満ちた民族の苦悩と痛恨
分断された「半島の痛み」
アッパー オムマー と叫ぶ
離散家族の慟哭の声が聴こえてくる
パゴダ公園を案内されて歩いたとき
無抵抗の独立運動のデモに向かって 銃剣で威嚇し
発砲している像がいくつも並んでいるのをみた
余りにもむごい像なので 思わず
胸が痛い! と叫んでしまったが
日帝三十六年間の半島の受けた痛みと比べたら
私ひとりがどんな痛みを感じようとも
一匹の蚊に刺された痛みにもならないでしょうね
注 「半島の痛み」 金光林の詩
昨年十月二十日の午後、金光林とパゴダ公園を散策。
アッパー オムマー 父母を呼ぶ幼児言葉。
韓国の詩人・金光林のおいたちと、作者のハングル語翻訳への動機が判る作品です。最終連は特に重要で、「日帝三十六年間」の歴史を知る義務が私たち日本人にはあると思いますし、「半島の受けた痛み」を常に肝に銘じておく必要があるでしょう。その上での日韓交流が必要と思うのですが、作者はそれをやっており敬服しています。「一匹の蚊に刺された痛みにもならない」とは、いい詩句だと思います。
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