きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり

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モンガラカワハギ
新井克彦画
 

2004.2.25(水)

 私が今年から職場の懇親会の幹事になって初めてのイベント、異動者の歓迎会が明日開催されます。それに先だっての幹事会を開きましたけど、幹事連中は乗ってましたね。呑み会というのは、基本的にはただ呑むだけでいいと私は思っているんですが、他のメンバーは違います。ただ呑んでいるだけでは面白くないんでゲームをやろう、ゲームの景品は労働組合に用意されている景品があるんでそれを持ってこよう、とまあ、非常に積極的です。私が幹事長ですから拒否も出来るんですが、拒否する話ではないんでいいんじゃない≠ニOKを出しました。
 初めてのイベントなんで、ちょっと緊張もありますが、みんなが積極的なんで助かります。それにしても労組が景品を持っているなんて、知ってる人は知っているんですね。驚きです。



  季刊詩誌『新怪魚』87号
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2003.4.1
和歌山県和歌山市
わかやま詩の会・くりすたきじ氏 発行
500円
 

    河口の街(一)   くりすたきじ
      
とゆ
   庇には樋がなかった
   トタンの屋根をはげしく打って
   雨は 黒い路地にまっすぐ流れ落ちた
   低い窓を大きく開けて
   わたしは雨の音を聴いたはずなのに
   路地に敷きつめられたコークスの
   燃え尽きた かすかな炎の匂いだけを
   今は覚えている

   貝柄町の祖母の家で夕飯がはじまった
   狭い土間に面した居間の板璧に
   くすんだ茶箪笥が並んだ一角があって
   家族は大きな丸いお膳を囲んだ
   祖母は首にタオルをかけて汗を拭きながら
   お値の横に座った  
あぐら
   丸い顔に太い眉毛と 胡坐をかいた鼻
   一家の主は祖父ではなく
   たくましい祖母であった

   食べ終えると祖母は
   りんごを剥いてくれた
   外はまだ明るく 誰かが紙芝居の拍子木を
   カチカチと打ち鳴らして歩いている
   一切れのりんごを手に持って
   わたしは路地に飛び出した
   紙芝居のおっちゃんはいつも
   トンネルの入り口に自転車をとめて
   黄金バットを見せてくれた

   茜色の夕陽を浴びた電車は
   大門川の鉄橋を渡り
   わたしと黄金バットの頭上を越えて
   北の空へと消えた

 詩誌の名前は見たことがあるのですが、初めて手に取りました。表紙の絵が何ともあたたかい詩誌です。
 紹介した作品を拝読すると、作者は私と同年代の方ではないかと思います。「路地に敷きつめられたコークス」も「黄金バット」も覚えています。「庇には樋がな」くて「トタンの屋根」の貧しい住まいでしたけど、将来への希望があって、どこか明るかったあの時代を思い出します。住んでいる地域は違っても日本中どこでも同じようだった、そんな時代を証言する作品と云えましょう。そこから見た現代≠考えさせられる作品です。



  季刊詩誌『新怪魚』88号
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2003.7.1
和歌山県和歌山市
わかやま詩の会・くりすたきじ氏 発行
500円
 

    築八十年の家    福重正一

   築八十年の家
   だいぶん捩れてきた
   ガラス戸も重いのだ
   力まかせに引っぱった
   軋む音が腰を直撃する
   古くなった家はなかなか素直でないのだ

   長い間歩いてきた足
   だいぶん弱ってきた
   ちょっとした段差にも
   直ぐに転んで終うのだ
   古くなった足はなかなか素直でないのだ

   金婚式はとうに過ぎた
   妻と朝から言ひあった
   一言すみませんと言えばよいのに
   古くなった妻はなかなか素直でないのだ

   八十年を生きてきた命
   ちょっと暑かったり
   寒かったりすると
   直ぐに出て行こうとする
   まあまあと宥めてはいるが
   古くなった命はなかなか素直でないのだ

 「古くなった〜はなかなか素直でないのだ」という同じ繰返しがおもしろい作品ですね。同じパターンのフレーズを使うとダレてしまうものなんですが、この作品の場合はそれが見事に奏功しています。「家」「足」「妻」と来て、やっぱり「妻」はおもしろい。思わず、そうだよなぁと笑ってしまいました。でも、続く「命」はちょっと重いですね。重いけど暗くはならない。それが作者の筆力だろうと思います。楽しんで、考えてしまった作品です。



  季刊詩誌『新怪魚』89号
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2003.10.1
和歌山県和歌山市
わかやま詩の会・くりすたきじ氏 発行
500円
 

    酔い心地    山田 博

   朝早く
   送電塔のてっペんから
   ひとしきり
   鴉の声が響き渡る

   どうだい貴公
   おれさまの自信の程を見習わねえか

   何を鴉め
   てめえの自信なんぞ雲にくれてやらあ

   すると蝉の奴
   やけにはしゃぎだした
   ケ ケ ケ ケ 今朝の酒
   こいつはたまらねえ

 うまく説明できないのですが、おもしろい作品だと思います。「鴉」と「おれさま」だけが登場人物かと思うと、「蝉」もいます。「蝉」が出てきたことで作品が転換して、よりおもしろくなり、三者が相呼応して混然とさせるのが作者の眼目かもしれませんね。「酔い心地」というタイトルだから、それは読者にも伝わると云えるでしょう。散文ではない、まさに詩の世界です。



  季刊詩誌『新怪魚』90号
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2004.1.1
和歌山県和歌山市
新怪魚の会・くりすたきじ氏 発行
500円
 

    付け根    曽我部昭美

   見せるしかない
   しゃがみ込んだ
   道ばたに
   狂ってきよみずのぶたいから
   飛び下りるような顔

   すれちがおうとするおとこが
   目にした
   スカートのなかで
   さんぜんと輝いている
   白い付け根

   おとこは
   けつまずき
   倒れた

 コンビニの前でしゃがみこんでいるような最近の女子高校生を思い描いてみました。中国では女性が下着を見られることを気にしていないそうですから、日本でも同じようなことになっても何の不思議はないんですが、でもやっぱり気になるものです。最終連の「おとこは/けつまずき/倒れた」のは理解できます。
 でも、なんで「見せるしかない」なんだろう? 「きよみずのぶたいから/飛び下りるような顔」になるようことって何だろう? そこがこの作品のポイントではないかと思います。「狂って」をどう解釈するかが重要でしょうね。それは読者が考えることなのかもしれません。




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