きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり

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モンガラカワハギ
新井克彦画
 

2004.3.18(木)

 数百人在籍する部の、親睦会のボーリング大会がありました。ボーリングは得意ではないし、あまり好きでもないんですが、自分の課だけでなく他の課の人たちとの交流の場ですから、出席の返事をしておきました。都合がつかなかったらドタキャンのつもりだったのですけど、都合がついた(^^;

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 デジカメで早い動きを撮るのは難しいですね。構図も決まってしまうので、あまりおもしろくない。これは私が撮ったものではなく後輩に頼んで撮ってもらったものです。数十枚の図の中で使えそうなのはこれぐらいでした。
 結果は惨憺たるものでした。1ゲーム目が69ピンだったかな? 2ゲーム目は128ピン。参加者100名近くの中で下から20番目ぐらい。まあ、参加することに意味がある、ということで勘弁してもらいました。



  個人詩誌Quake6号
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2004.3.15
川崎市麻生区
奥野祐子氏 発行
非売品
 

    選別    奥野祐子

   タマゴが先か
   ニワトリが先か
   ふと 気づくと夜明け前
   そんなことを考えて
   一晩中 眠りが浅いことがある
   でも どんなふうにもがいても
   私は父の背中は追い越せなくて
   どんなふうに考えても
   母があの時 自殺していたら
   ゼッタイに 私は存在しなかった
   思わず そう言い切ってしまうほどに
   母の思い出は痛々しくて
   私を産もうとする力と
   私を殺そうとする力が
   火花を散らしてぶつかった
   その瞬間があったはず
   コトバもなく 声もなく
   音もしない 沈黙のひと時が
   私は そんな スリリングな
   もろくて いたいけな
   戦いの結果として
   ぽつんと ここに立っている
   タマゴが先か
   ニワトリが先か
   風にあおられて
   やっとの思いで崖の先端に
   フラフラしながら立っている
   傷だらけのタマゴ
   ニワトリがとつぜん
   しめ殺されたような しゃがれた声で
   ときを告げる
   タマゴが崖から転がり落ちて
   くだけて われて 死んでしまっても
   ニワトリには もう
   どうすることもできない
   タマゴがかえる
   タマゴが生きる
   だけど ニワトリのためじゃない
   ニワトリはただ
   ときを告げるだけ
   ときが タマゴを選んだから
   ときが 私を残したから

 「タマゴが生き」ているのは「ときが タマゴを選んだから」という「選別」の果てだと煎っているようで、ある意味では痛ましい作品と云えましょう。「母があの時 自殺していたら/ゼッタイに 私は存在しなかった」というのは、実は生きている誰にでもあることで、それが「選別」だと作者は感じているようです。「戦いの結果として」私たちは「ぽつんと ここに立っている」のであり、「ときが 私を残したから」生きなければいけないし、でもそれは「ニワトリのためじゃない」、私たち自身のためなのだ。その裏で「選別」されなかった者たちの分まで生きる義務を負わされているのだ、とも読み取れ、人生の根源を考えさせられた作品です。



  月刊詩誌『柵』208号
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2004.3.20
大阪府豊能郡能勢町
詩画工房・志賀英夫氏 発行
600円
 

    落し穴    織田美沙子

   昨日
   わたしは
   落し穴に落ちそうになった
   右足が小枝をめりっと踏んだが
   左足で踏ん張り
   かろうじて落ちなかった
   落し穴は小さな凹みを残して
   元の場所にある

   今朝のミーティングで
   課長は落し穴に気をつけろと訓示した
   落ちたい人はどこにでもいるらしい

   引き出しの物をありったけ捨てて
   家を出ようとしたことがある
   あれは真実魂を奪うできごとだった
   全てを捨てても良いと思った

   可愛い赤ん坊が
   私の目前にいる
   この魔力は詩を超えている
   あのときのように
   自分の全てを捨てたくなった
   ―魂を奪う―
   なんと甘美な響きだろう

   わたしには逃亡癖があって
   落し穴は自分でこっそり堀ってある
   だから恋も赤ん坊も
   逃げるときの
   ほんの口実にすぎない

 「落ちたい人はどこにでもいるらしい」その人が実は「わたし」で、「落し穴は自分でこっそり堀ってある」というのですから、屈折したなかなか面白い作品だと思いました。「だから恋も赤ん坊も/逃げるときの/ほんの口実にすぎない」というフレーズも詩を引き締める意味で奏功しています。人生にはいっぱい「落し穴」があるものですが、それらは自ら掘ったものに過ぎないという達観した視線を感じます。まさに「この魔力は詩を超えている」のかもしれません。



  詩の雑誌『鮫』97号
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2004.3.10
東京都千代田区
<鮫の会> 芳賀章内氏 発行
500円
 

    貼る貼る    松浦成友

   壁面を覆い尽くすポスターの群れ
   一分の隙なきよう貼るのが与えられた仕事だ
   目に映る情報は一瞬が勝負であり配置は大切である
   鮮やかに壁面を彩らなければならない

   痛いところに湿布を貼ること
   外部を覆うことで内部へと入り込む
   真実は常に目に見えぬ内部に留まっているのだが
   痛みもまた内部的である

   伝票の裏にレシートを貼り
     封筒には会員番号のバーコードを貼る
   紛失してしまうと個を失うようで
     今日も決められた額の切手を貼っていく

   糊は隅を丁寧に塗っていき 中央部分も満遍無く塗る 塗る感触が
   脳に響く

   画鋲は紙の四隅に止めたのち 中央にも一つ止めるのだ 風に煽ら
   れヒラヒラ舞う角をしっかり止め 夢へと飛んでいく紙をいさめる

   ああ シールのように美しく貼れるものがもっとあれば
   正確無比に枠におさめて貼り続けるのに……

   他者にレッテルを貼るのは悲しき習性であり
   他者にレッテルを貼られていることに気付かないのは嬉しき習性で
   あろう

   貼る貼る 貼る貼る 春よ来い
   この世の果てでは壁に魂も貼れないのだから

 「貼る」という行為から様々な連想が表現されている作品ですが、「他者にレッテルを貼るのは悲しき習性であり/他者にレッテルを貼られていることに気付かないのは嬉しき習性で/あろう」なんてフレーズはおもしろいですね。最終連の「この世の果てでは壁に魂も貼れないのだから」というフレーズはオチとしても奏功していると思います。「真実は常に目に見えぬ内部に留まっている」という詩句も本質を表していると云えるでしょう。イメージ豊な作品だと思いました。




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