きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり

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「クモガクレ」
Calumia godeffroyi
カワアナゴ科
 

2004.5.23(日)

 日曜なので原稿を書いたり洋服を買いに行ったりしようと思っていたのですが、長い昼寝をしてしまって果たせず(^^; でも、いただいた本は読んだし、日本詩人クラブの仕事はしましたよ。

 日本詩人クラブでは、2月から現代詩研究会の場でEメールを使った交信を試みています。遠隔地や研究会に来られない人にもEメールでリアルタイムに参加してもらおうというものです。問題はPHS・携帯電話でして、私がプリペイドの携帯電話を持っていますので、通信費の決済に便利なそれを使おうとしていたのですが、通信できず。過去2回の試みは全て、ある会員のPHSを借りてやっています。いつまでも個人の世話になるわけにはいきませんので、今後どうするのか決めなければいけない状態でした。
 今日もプリペイドの携帯電話を試していたのですが、結論はプリペイドでは不可。結局、PHSという選択肢しかないなということになり、購入手配をしてオシマイにしました。次回は6月5日ですからね。クラブ専用のPHSを買ってもらうことにした次第です。それにしてもプリペイドというのは犯罪に使われたこともあって迫害されていますね。機械に罪は無い、問題は使う人間、ということでしょうか。



  高村昌憲氏詩集『六つの文字』
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2004.3.31
東京都港区
A&E刊
1400円
 

    六つの文字

   道端の雑草を抜き取る娘は六つ
   小さなスコップで 小さな花壇を作る
   娘の白い掌には向日葵
(ひまわり)の種子(たね)が七つ
   土中に宝石を隠すように埋められる

   水やりの新しい日課がはじまる
   新しい希望が春の日差しのなかで生長する
   小学枚に入学したばかりの娘は
   眠っていた小さな生命
(いのち)を蘇生させる

   入退院を繰り返す娘の目には
   規則正しい植物のリズムが 眩しく光る
   白い茎の先に 七つの若い葉……
   やがて 黄色い太陽が一つ薄目を覗かせる

   新しい世代の絶頂期
(ピーク)が訪れようとしていた
   開花を明日に予想したとき 事件は起きた――
   翌朝 道端の向日葵の花は
   当然のように むしり取られていた

   先頭を突き進むものに訪れた定めを目撃し
   小さな希望を奪い取った路傍の非情へ
   国を失った異教徒のように全身で抗議し
   初めて 自らの言葉を表わす小さな詩人へ

   <お花をきるな>

   六つの文字が呪文のように効いている
   六つの文字に込められた無垢な心に溢れた湧水
   道行く人々の心に届き 透明の垣根が築かれる
   残された六輪の花々への幼い小さな願い

   残された花々は切られることなく生長して
   鮮やかな 美しい夏の色に染まる
   やがて娘は 六つの文字が見知らぬ人を優しくして
   夏の美しさや希望に生長していくことを感じ始める

 詩集のタイトルポエムです。「翌朝 道端の向日葵の花は/当然のように むしり取られていた」というフレーズに心を痛めましたが、「お花をきるな」という「六つの文字が呪文のように効いている」ことにホッとした作品です。「六つの文字が見知らぬ人を優しくして」いたのだという視線は新鮮ですね。そこに救いを感じますし「入退院を繰り返す娘」に対する父親の愛情も素直に胸に落ちる作品でした。

 詩集は4行詩を主体にしていますが「深刻な飛躍」「税と蛍」「正視」「三つの光」「競争原理」などは4行詩として成功していると思いますし、4行詩ではありませんが「ビリ」は娘さんを主題にした秀作だと思いました。ちょっと硬質ですが読みやすい詩集です。



  高村昌憲氏著『現代詩再考』
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2004.3.31
東京都港区
A&E刊
1400円
 

    我が国の現代詩は、野生の朱鷺に似て絶滅の運命にあるのでしょうか。何者かに支配され管理された状況
   と環境の中で生き延びても、それは最早詩ではないかもしれません。現代詩は死んでも詩は生き続けると主
   張するならば、そのとき詩人は詩人でなくなるでしょう。何故なら、詩とは何時もその時代を呼吸している
   生きた肉体であり血であり涙であり、詩とは現代詩を指すものであったからです。そして私にとって現代詩
   を思考することとは、他者との関係としての社会を見ることであり、学問としての文学を考えることであり、
   幾多のニュアンスを生きる存在者としての自己を見出す行為でもあります。

 紹介した文は「はじめに」の最後の部分です。「詩とは何時もその時代を呼吸している」「現代詩を指すものであった」という指摘は重要だと思います。それが根底にあってこの評論は書かれていると云えましょう。4行詩に重点が置かれた詩論集ですが、そこだけに固執しているわけではありません。技法のひとつとして提案している、と読みました。アラゴン論、ポール・オースター論、齋藤まもる論などに多くの頁が割かれていますけれど、藤井康夫という無名の歌人を採り上げているところにも著者の面目躍如たるものを感じます。前出の詩集『六つの文字』とともに硬質な質の高い論集だと思いました。




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