きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり

    kumogakure.jpg    
 
 
 
「クモガクレ」
Calumia godeffroyi
カワアナゴ科
 

2004.6.14(月)

 三交替者対象の夜間廃水事故訓練も今日が最終日。日勤の環境委員2名がモニターとして参加することになっていますが、私はすでに立ち会っていますから義務はないのですけど、担当の1名が出張になって、急遽ピンチヒッターとして立会いました。20時からの訓練ですからそれまで残業で居残っていなければならず、断ろうと思ったんですけどね、結局引き受けてしまいました。仕事もかなり遅れていますから、これを機に進めておこうと思ったのです。

 訓練は参加者にとっては初めてでも、私は2回目ということもありサブ・モニターという立場でもありましたから気楽でした。夜の暗さにも少しは慣れましたからね。参加者も他の面でいろいろな訓練を受けていますので、てきぱきとして見ていて気持のいいものでした。あとは本番≠ェ起きないことを祈るのみです。いえいえ、祈る≠ネんて言ってられませんね。起きない準備が大事です。訓練はあくまでも起きた後の対応の話。もっと力を入れなければいけないのは起こさない施策です。それを考えるのも私の仕事だと思っています。



  詩誌『やまどり』31号
    yamadori 31.JPG    
 
 
 
 
2004.6.6
神奈川県伊勢原市
丹沢大山詩の会 発行
非売品
 

    IT革命    古郡陽一

   飲み屋で
   上司の悪口が一通り終わったら
   ITの話になった
   パソコンやインターネットで
   仕事や生活が変わって
   そのうちに 在宅勤務でもいいようになるし
   漁師がホームページを開けば
   漁協を通さずに一人ででも魚を売れる
   便利になっていくね

   その時
   ゲーム脳って知ってますか
   テレビゲームを毎日やっている子供の脳です
   と 横合いから話に割り込んできた男がいた
   電卓の頃からはじまっているんです
   算盤や暗算をやらなくなって
   頭を使わなくなって
   脳が退化しだしたんです
   考えることや がまんが
   できなくなっている子供たち
   四割もいるんです 知っていますか
   子供の教育を間違えてしまいました
   パソコンよりも 心と脳を鍛えるべきでした
   人や生き物の命を
   導いと思う心をもった子を

   もう一度やり直したい
   でも もう私の言葉が届かない子供になってしまった
   子供の未来を暗くするのですから
   革命と言ってはいけないのです 絶対にいけません
   男の泥酔した身体が私に重くのしかかってきた

      (平成十五年十二月初作、十六年三月一部改)

 「子供の未来を暗くするのですから/革命と言ってはいけないのです」と言う「横合いから話に割り込んできた男」の説には、ちょっと反論できないなと思います。曲りなりにも私たちは「算盤や暗算をや」って、「テレビゲームを毎日やっている」ことはありませんから「ゲーム脳」ではないと思っているのですが、それが「子供」のこととなると自信を持って反論できません。「考えることや がまんが/できなくなっている子供たち/四割もいるんです」と言われると、これもデータが無いので「知っていま」せんと応えるしかありません。でも「パソコンよりも 心と脳を鍛えるべきでした/人や生き物の命を/導いと思う心をもった子を」というのは判ります。そこは共感できますね。

 結局、「泥酔した」「男」の言うことは認めざるを得ないと思います。ITなんてただの道具だと思っていますが、子供にとっては「脳が退化しだ」すきっかけなのかもしれませんね。大事なことを考えさせられた作品です。



  隔月刊詩誌『鰐組』204号
    wani gumi 204.JPG    
 
 
 
 
2004.6.5
茨城県龍ヶ崎市
ワニ・プロダクション発行
非売品
 

    部屋にありふれて    福原恒雄

   いち日がすんだとおもって
   靴を
   脱ぐ
   燈を
   点ける
   きもちが転がると

   もそっと
   隅っこで
   煌めき
   臆病が
   身を疎める
   閉め切っているのに
   隙間のない花辧なのに

   耳だけが飛んでいく
   おぅ そいつ
   洋語に酔っぱらっている
   戸外からだ
   何世か何代目とかの祈祷師の道理で
   明日は
   明るい 明るいぞよと軋る

   発火点になる闇を
   担いでいるように
   美しい華のように
   本拠は見えないのに
   いつかも
   見た
   野越え山越え権勢のりズムにそっくりとは

   息切れする
   という理由に潜りたいいち日のあとで

   立ち尽くし
   明るさ
   欲しがる
   卓上の花瓶に

   まだ
   眠らない
   バラ一輪は
   ありふれてバラである

 まず最初に字のお詫びをしておきます。2連目「辧」は真ん中が瓜≠ナすが、表現できず略字にしてあります。3連目「祷」は正字の示ヘンに壽ですが、これも表現できず略字を用いました。4連目「りズム」はママです。

 さて本題ですが、難しい作品だと思います。私なりの読み方を書いてみましょう。タイトルの「部屋にありふれている」ものは何か。最終連・最終行に「ありふれてバラである」とありますから、そこまで引き摺って良いでしょう。これでタイトルと最後をまず押えておきます。次に時間の流れを見ます。第1連・1行目が「いち日がすんだとおもって」ですから、帰宅したときからこの話は始まり、最終連で「まだ/眠らない」とありますので、眠るまでの話と仮に置きます。

 そういう構造上の処理と時間の処理をまずやっておくと作品に入りやすいと思います。
(帰宅して)
「きもちが転がると」(気持が楽になって)
「もそっと/隅っこで/煌めき/臆病が/身を疎める」(一日を振り返ってみると小さなことだが煌いていたり、失敗して身を竦めるようなことがあったなあ)。
「閉め切っているのに/隙間のない花辧なのに//耳だけが飛んでいく」(自分の気持としては隙間のない花辧のように心を閉め切っていたはずなのに、耳だけはいろいろなことを聴いてしまった)。* もちろんここは部屋を閉め切るとも掛けています。
「おぅ そいつ/洋語に酔っぱらっている/戸外からだ」(例えばあいつはカタカナ語を振り回して、学問のあるところを見せびらかしているようだったが、自分の意見に酔っていただけじゃないか。しかも自分で確立したものでなく借物だ)。
「何世か何代目とかの祈祷師の道理で/明日は/明るい 明るいぞよと軋る」(何代も続いている祈祷師みたいなもんで、明日は明るい、明るいと言っているだけ。しかもそれはどこかで軋んでいる)。
「発火点になる闇を/担いでいるように/美しい華のように/本拠は見えないのに」(闇の中の一条の光のようにあいつは思っているんだ、何の根拠もないのに)。
「いつかも/見た/野越え山越え権勢のりズムにそっくりとは」(そういえばいつかも見たことがあるぞ、そんな奴。権力を持ちたがる奴にそっくりだ)。
「息切れする/という理由に潜りたいいち日のあとで」(もう俺はシンドイ。そんな理由で眼を閉じていたいと思った一日だったけど)、
「立ち尽くし/明るさ/欲しがる/卓上の花瓶に」(卓上の花瓶を見ると、こいつまで日の当る場所を欲しがっているではないか!)
「まだ/眠らない/バラ一輪は/ありふれてバラである」(そんなことを考えているとまだ眠れない。バラ一輪なんてありふれているけどバラである。俺の部屋にありふれたものの象徴として在る。ありふれていると言えば、俺もあいつのようにありふれているに違いない)。

 と、まあ、かなり強引に散文的に解釈してみましたけど、たぶん間違っているでしょう(^^; 構造が二重、三重と入り組んでいますので、かなり難しく、別の解釈も当然できますが、基本のところは合っているかなぁ。でも、要は合っている合っていないではなく、どう読むかだろうと思います。そして、ここから刺激されて自分ならどう書く、どう考えるというところへ行き着くことが大事たろうと思います。その意味でも私にとって福原恒雄詩は刺激的なのです。




   back(6月の部屋へ戻る)

   
home