きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり

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「クモガクレ」
Calumia godeffroyi
カワアナゴ科
 

2004.6.30(水)

 夜、村上泰三さんの娘さんから電話があって、6月23日に村上さんが亡くなったことを知らされました。ショックでした。お会いしたことはないと思うのですが、詩誌『竜骨』をいただく毎に好意的な手紙が添えられて、いずれゆっくりお話しできる詩人だと思っていました。さらに娘さんから63歳でお亡くなりになったと聞いて、二重のショックを覚えました。私よりわずか8歳の違いしかありません。作品やお手紙の文面で、70歳代・80歳代の多いこの世界では比較的お若い方だと思っていましたが、まだ60歳をわずかに過ぎたばかりだったのですね。残念です。ご冥福をお祈りいたします。



  季刊詩誌『竜骨』53号
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2004.6.25
東京都福生市
竜骨の会・村上泰三氏他 発行
600円
 

 村上さんの状態が編集後記に載っていました。2月に体調を崩されて3月19日に手術を受けられたとのこと。そのわずか3ヵ月後に亡くなったわけですから、同人の皆様もさぞや驚かれたことと拝察いたします。同人の皆様に改めてお悔やみ申し上げます。


    秩父路    高橋次夫

   ミツオが住んでいたので所沢には何度か通ったが
   その先はわたしの初めての風景世界だ
   飯能を過ぎると 車窓ま近かに
   杉の山が迫ってくる 暫く寄り添っては離れてゆく
   照葉樹林が杉の山のあちこちに浮かび
   おっとり 光ってみえる
   その山の匂いが 窓のガラスをすり抜けて
   わたしの頬を撫でるのだ
   空は五月色

   西武秩父駅から羊山公園まで 15分程の歩き旅
   見知らぬ風景を手繰るように急坂を踏んで
   芝桜のうす紅色に紛れこむ
   ひとの手で ひと株ひと株植えこまれた
   異様なまでの 広大な色模様
   息苦しいままに庁むわたしに
   覆いかぶさってくる 禿山の武甲山
   満身創痍の裸身を晒しての黙示
   わたしは項垂れて道を変える

   秩父市街を俯瞰できる丘に登る
   周囲を山で隔絶されたこの地に息づいてきた歴史
   その神話はいまも脈打っているのだろうか
   昏れかかった稜線をひとめぐりする
   その眼線の前に高い塔があった 忠霊塔と読める
   わたしは その忠霊塔を避けて歩いた
   満洲で父の合同土葬をした近くに
   同じような忠霊塔が建っていたのを想い起したからだ

   塔も 武甲の山容も 芝桜も
   暮色の底に沈みはじめたようだ
   ただひとりのわたしも
   しらじらとした駅のホームの
   うすっペらなひかりの淵に
   しばらくは躯を投げだしていた
                  
ミツオ――舎弟
                  
満 洲――中国東北部
                  
忠霊塔――忠義のために生命をすてた者の霊魂をまつる塔

 村上泰三さんの訃報に接したあとだけに、この作品が痛く胸に迫ってきました。私には戦争で肉親を亡くした体験はありませんが「その忠霊塔を避けて歩いた」気持は察せられます。おそらく「満身創痍の裸身を晒しての黙示/わたしは項垂れて道を変える」というフレーズにも近い思いがあったのでしょう。「秩父路」は作者にとって鎮魂の意味があったのではなかろうかと推察した作品です。



  藤子迅司良氏詩集『新しい画布、若しくは駅(うまや)
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2004.6.18
東京都新宿区
土曜美術社出版販売刊
2381円+税
 

    光りは、祭りは

   ためらいなく進むものであれば
   一向に構わない
   ひとり、蚊帳の外気分も
   自身で許さなければと
   離れたところで過ごしていると
   遠く聞こえる光り
   輪の中で静か過ぎる祭り

   リヨン駅で一人だった
   セーヌまで歩き
   あくる日からのことを考えていた
   祖父の戦場と今の繁雑さを
   ひとまとめに出来るのは
   高い所から漏れ来る
   光りのせいに違いなかった

   浅草寺も同じだった
   音もなく香を体に纏う仕草は
   孤独で
   大勢であればあるほど
   行為に疑いが増し
   希望が混雑に邪魔をされ
   輪から弾き出された

   旅をするのは
   希求ではなく
   距離を確かめるということ
   町を歩くのは
   豊かさの共有ではなく
   無為を察知するということ
   遠く離れるのは
   決別ではなく
   愛する者の数が分かるということ

   光りは、祭りは
   何のために、誰のために注ぎ
   時は、儀式は
   何のために、誰のためにかくも長く
   続き、続く

 「光り」と「祭り」について考えさせられる作品です。「大勢であればあるほど/行為に疑いが増」すというのは一面の真実でしょう。「旅をするのは/希求ではなく/距離を確かめるということ」というフレーズは納得しました。「遠く離れるのは/決別ではなく/愛する者の数が分かるということ」ということも体験的に判りますね。「光りは、祭りは/何のために、誰のために注」ぐのかという設問も、回答は難しいのですが考えさせられるものがあります。
 詩集全体にも自問自答しているような傾向を感じました。ある意味では哲学的な詩集と謂えましょう。著者は画家でもあるようで、表紙の絵は著者装丁となっていました。硬質ですが質の高い詩集だと思います。




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