きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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「モンガラ カワハギ」 |
新井克彦画 |
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2004.7.4(日)
昨日の土曜日は、金曜日帰り出張が祟ったのか一日中ボーッとしていました。ベッドで横になりながら本を読んで、いつの間にか眠って、眼が覚めるとまた本を読んでと、その繰り返しでした。お陰で今日は体調万全。午後から3時間ほど出勤しましたけど、まったく苦になりませんでしたね。
火曜日は日本ペンクラブの電子文藝館委員会が予定されています。いつもそのタイミングで休暇を取るようにしているんですが、休暇を取るためには事前に片付けておかなくてはいけない仕事が山ほどあります。月曜日一日だけではとても終りそうにないので出勤した次第です。でもね、休日出勤の3時間って、平日のほぼ一日分の仕事ができるんですよ。電話は来ないし会議もない。現場からの呼出しもないのでフルに3時間が使えます。ん? ってことは、平日は3時間分しか仕事をしてないってことかなぁ? そうだろうと思います(^^;
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2004.7.1 |
東京都大田区 |
ダニエル社 発行 |
300円 |
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木の中心 柏木義高(かしわぎ よしたか)
風の強い日だった
私はいつもの木に会いに行った
だれもいなかった
木は
葉も枝もひどくゆれていた
ざあざあと鳴っていた
遠く見わたすと
けやきもいちょうもくすのきも
大きく波打っていた
私はふたたび木と対峙した
祈る姿勢で
風は少しも止まなかった
木は相変わらず騒いでいた
だが
ふとあることに気づいた
木の中心の枝分かれしたくぼみに
小さな着生樹が伸びていたのだが
それは少しもゆれていなかったのだ
最終連がよく効いている作品だと思います。「木の中心の枝分かれしたくぼみ」の「小さな着生樹」というのは、切り株の中心という眼に見える光景なのか、切り株ではない木の中心を想像したものなのか不明ですが、ここは後者と採りたいですね。そうすると「それは少しもゆれていなかったのだ」というフレーズの意味が深まると思います。どういう意味≠ゥは読者の採り方によって分かれますけど、私は木の魔性のようなものと考えいます。あるいは胎内を想像しました。短い詩ですが想像を刺激する作品だと思いました。
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2004.7.7 |
栃木県宇都宮市 |
橋の会・野澤俊雄氏
発行 |
700円 |
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難題 戸井みちお
困ったなあ それだけは
うけあえんけど
言うだけは 言っとくわ
ええでえ
がんばるでえ
そうするでえ
でもなあ やっぱり
たいていのことはきいてやるけどほんまのとこ
それだけは
神様の決めることやでなあ
自信ないわ
私より先に死なんといて
私を先に死なせて
私が死んだら
一晩私に添い寝して
お前はそう言うけど
おれは本当は困ってるのだ
そんなにうまくいくかどうか
あの時だってそうやろ 朝早く
おとうさん死んじゃった どないしていいかわ
からん……
泣き声で電話かかってきて
おれ わかった すぐ行く すぐ行くからね
電話きって飛んで行ったところが
きょとんとしている
さっき電話くれた
いえ 何かあったの
まさか お父さん生きている?ともきけず
いやいや じあねえ
心あたり次へすっとんでいく
あらお早よう 朝早くから何?
あれ ここもちがう
何軒も走り回って
おとうさん生きていますか ともきけず
どこだ どうなってるんだ
待ってるだろうに どこだ
自分の早とちり後悔しながら
ええい!そのうちにまた連絡あるだろう
そのうちがいつまでたってもこない
夕方 役員さんからの連格
Yさんが亡くなられましたのでお報らせします
何!Yさん
お父さんと言うから父親のいる所ばかり探して
いたのに
お父さんとは御主人のことか
おれにしておれの失態
すっ飛んで行く
すでに玄関には香の香
朝手さわったらつめたいの
冷たいの!
息してないの!
つめたいのよ……
そいつはいつも理不尽だ
悪い奴だ
すね者だ
いつやってくるかわからない
おれはいつものごとく夜中
目を覚ますとそっとお前の手をにぎってみる
あったかい
息してる
大丈夫だ
お前の難題ちらとおもいだし
おれ 女房おいては往けねえんだ まだローン
はあるし そう言っていたYさん
それでもYさんは逝っちゃった
生きるのも難しいが
うまく死ねるのは ほんま もっと難しいのだ
お前の温かい手をにぎり
お前のね息をききながら
おれはまた眠りの中に流れてゆく
成るようにしか成らないのだ と思いながら
ほんとうに「難題」ですね。「私より先に死なんといて/私を先に死なせて/私が死んだら/一晩私に添い寝して」なんて言われても「そんなにうまくいくかどうか」分りませんけど、「おれ」は「ええでえ/がんばるでえ/そうするでえ」と応えています。ここに「おれ」の本質的なやさしさを感じます。そんな「おれ」だからこそ「おとうさん死んじゃった」と「泣き声で電話かかって」くるのでしょう。しかも「早とちり」であったとしても「何軒も走り回」る相手がいるのです。
「生きるのも難しいが/うまく死ねるのは ほんま もっと難しいのだ」と思いますし、実際「成るようにしか成らない」ものですが、そうなるまで作品のように頼りにされて生きていたいものです。そんなことを感じた作品です。
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2004.6.1 |
千葉県佐原市 |
裸人の会・五喜田正巳氏
発行 |
500円 |
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日常 五喜田正巳
いつの間にか葉桜となり
四月も終りだというのに
炬燵を手放せないでいる
観測史上初めての真夏日
布団を干したついでに
電気毛布も片付けたが
一日でまた取り出した
カルチェアのおばさん
と言っても六十歳一寸
「私なんか電気毛布やったことないよ」
やはり 女性は強いと
感心しながらも下着の
長袖や股引は欠かせない
ある時 何かの話の続きで
股引きの話になったが
側(そば)にいた北岡喜寿が
「おれは そんなもの穿かないよ」
とパンツをめくって見せた
彼は私より少し年長の筈だ
明日から大型連休が始まる
テロや混雑も性に合わない
孫や娘も都合で来られない
十五畳の部屋の片すみ
炬燵に入って
乾(から)びた節豆を食べていると
嗤うかのように鴉が鳴いた
日暮れも間近いことだろう
「四月も終り」で「明日から大型連休が始まる」という、ある日の「日常」を切り取った作品ですが、気負いのない文体に魅かれます。「カルチェア」の先生をして、「北岡喜寿」という詩友がいて、「十五畳の部屋の片すみ」で「炬燵に入って/乾びた節豆を食べている」。表面的にはそれだけのことしか書かれていませんけど、「テロや混雑も性に合わない」と、自分の依って立つ位置をきちんと述べています。最終連の「嗤うかのように鴉が鳴いた」というフレーズは自嘲とも採れますが、意識は「日暮れも間近いことだろう」ということにあって、揺らぎはありません。文人の文人たる心意気を示した作品だと受け止めました。
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