きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり

       
 
 
 
「モンガラ カワハギ」
新井克彦画
 
 

2004.7.5(月)

 明日は1ヵ月ぶりに休暇を取ることにしましたから、今日は仕事が終ると当然のように呑みに行きました。珍しくロシア料理の店に行ってみました。料理には興味はないけど、お酒はこだわりましたね。もちろんウォッカと思ったのですが、注文したのはなぜかバーボン(^^; 要は日本酒や焼酎をたまには離れて洋酒≠呑みたかったということかな。そうそう、ロシアビールというのも呑んでみました。銘柄は忘れましたれどまあまあの味です。中国の人には怒られそうですけどチンタオビールよりは旨い(^^; バーボンのロックを3杯呑んで、ちょっと酩酊した夜でした。



  進 一男氏詩集やがて来る飛翔の時を前にして
    yagate kuru hishou no tokiwo maenishite.JPG    
 
 
 
 
2004.6.25
大阪府豊能郡能勢町
詩画工房刊
2100円
 

    飛ぶがいいと言った

   おお どうしてこれほどまでに
   私の内部に 疼くものがあるのか
   生まれ出てきて 現在この世に在るように
   私は何時も あのようにもう一度 飛ぶことを思う

   それならば飛ぶがいい 何時でも飛ぶがいい
   その時 すべてを知るものは私に言った
   それにつれて 何という広大な空間が
   何と 私の目の前に展開されてあることか

   さあ 何時でも飛び出しなさい
   もう一度 すべてを知るものは私に言った
   世界はそこから 再び始まることであろうか

 この詩集の性格を伝えているのは「あとがき」言葉だろうと思います。冒頭には次のように書かれています。

    死は生の終わりである、この余りにも確実な事実を前にしながら、そ
   れでもこの終わり≠ノ代わるべき言葉は無いものかと、ひところ私は
   考えて過ごしたことがある。そして思いついたのが飛翔≠ナあった。
   実はこれらの作品はすべて、そのような期間にあって書かれたものであ
   る。

 作品は2000年9月から2002年2月までの制作順に並んでいて、紹介した作品はたまたま巻頭になっていましたが、「あとがき」の思いと比べても巻頭にふさわしい詩と思います。二度出てくる「すべてを知るもの」とは神≠フことと解釈しています。「生の終わり」を「飛翔」と名づけた著者の思想が見事に具現化した作品と云えましょう。「世界はそこから 再び始まる」と考えると「飛翔」の意味がよく伝わってきますね。勇気付けられる詩集でした。



  隔月刊詩誌サロン・デ・ポエート250号
    salon des poetes 250.JPG    
 
 
 
 
2004.6.25
名古屋市名東区
中部詩人サロン・滝澤和枝氏 発行
300円
 

    わが町    伊藤康子

   擦れ違ってから
   感じる違和感
   振り返り
   見知った顔に
   軽く会釈をする

   何年か前には
   毎日話をしていた
   だが今は
   ほほ笑むこともなく
   儀礼的に頭を下げる

   喧嘩や行き違い
   があった訳でもないのに
   言葉を交わさなくなる
   人とは
   不思議である

   毎日顔を合わせても
   知り合いでないと
   挨拶しないで通り過ぎる
   無視しているわけではなく
   何となく気になりながら
   ある日たまたま
   会釈を交わし
   それからは
   会う度に会釈する

   親しく言葉は交わさないが
   挨拶だけはする人が増え
   ここは
   わたしの生活するところ

   移り住んで二十五年

   どこに住んでいるのか
   何をしているのか
   そんな事は知らないが
   顔だけ見知った人が増え
   歩いていてもほっとする
   ここは
   わたしの町になった

   紛れもない わたしの帰る場所

 「移り住んで二十五年」で「ここは/わたしの町になった」というのはよく判りますね。この作品のおもしろいところは「親しく言葉は交わさないが/挨拶だけはする人が増え」たという、謂わばプラスの面と「喧嘩や行き違い/があった訳でもないのに/言葉を交わさなくなる」というマイナスの面の両方を見ていることだと思います。もちろんプラスの面だけがあればいいのですが、そうもいかないのが人間のおもしろいところ。まさに「人とは/不思議である」と云えましょう。「紛れもない わたしの帰る場所」を獲得した作者の、人間を見る目の確かさを感じた作品です。




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