きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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「モンガラ カワハギ」 |
新井克彦画 |
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2004.8.11(水)
夏休みも終って今日から出勤です。本当に休みって短いですね。もっとも、あと10日ほど夏休みがあったとしても短い!≠ニ言うのかもしれませんけど(^^;
今日は一日中身体が痛くてタマリマセンでした。昨日の本箱整理が効いたんですね。立ったりしゃがんだり、中腰になったり…。普段使っていない筋肉を使ったということもあるでしょうが、要は日頃の運動不足なんでしょう。意識して筋肉を使わないと、脳がボケる前に足腰から老化が始まりそうです。ネ、ご同輩!
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1988.9.10 |
東京都千代田区 |
花神社刊 |
2000円 |
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不思議な一日
荻窪駅南口の <松寿司> で
わたしたちは年に一度会う
都立富士高校卒業生の
母親同志の集まり
わたしたちはりりしい出征兵士の母のように
わたしたちはかしこい従軍看護婦の母のように
それぞれの素晴しい子供たちについて
語りあう
尽きぬ愛の泉をあらわすには
ほとばしる熱い水のようなコトバがいい
わたしたちに顔はあって
顔はない
五臓六腑にしみこんだ
子供たちへのけなげな執念と愛欲が
わたしたち個≠フすべてなのだから
そしてそれらを吐露しあうことだけが
わたしたちの連帯なのだから
大学受験の苦労話や
学生生活の報告の時期がすぎると
女の子には結婚話がもちあがる
もう日取りの決まった女の子の親が
お仲人さん≠竄烽もろの情勢について
語りはじめる
一方同じ女の子でも研究一筋
大学院を出る就職の決まった子の親は
「ライオン油脂と花王どちらも決まって
娘は三日間悩んだらしいんですけど……」と
結局給料もボーナスも安い
ライオンにした顛末を
めんめんと語る
男の子は新米社会人がほとんどだ
大企業の組織を動かす尊い尊い歯車になった
あぁ我が子よ
海外に行く子も多い
泣き笑い子ばなれの儀式を体験してもなお
千人針の誓いを語る 親
わたしは立ち上がって
息子の嫁探し≠依頼しておく
「まだ先のはなしですけれど どうぞ皆様
わたしは嫁いびりは絶対しません
別居します(笑い)」
<サンジェルマン> で
コーヒーの二次会になっても
わたしたちの火勢は衰えることなく
燃えつづける
ときにチラリと老後の問題が
ときにホラリと亭主のうわさが
影のようにかすめたとしても
わたしたちが汗の手で握りしめ
盲目の胸に抱きしめる
子供たちへの確執の前には
瞬時にして消え去ってしまう
荻窪駅南口の <松寿司> で
わたしたちは年に一度会う
ひょんなことでこの詩集のことが著者との間で話題になって、結局いただいちゃいました、ありがとうございます。紹介した作品はタイトルポエムですが、確かに「不思議な」「母親同志の集まり」ですね。「都立富士高校卒業生」が集まるのでしたらただの同窓会ですけど、その母親ですからね。よっぽどウマが合ったのかなと想像しています。
1988年刊行ということで、いろいろなことを考えさせられました。言葉の上では「看護婦」は言い換えが強要されていますし「嫁いびり」も死語になっているのではないかと思います。時代はバブル真っ最中、「ライオン油脂と花王どちらも決まって」なんて今では考えられないことですね。それに何と云っても作品に余裕があるように感じられます。それはこの作品に限らず詩集全体からそんな印象を受けました。「わたしたちに顔はあって/顔はない」というのは変化していないのかもしれませんが…。
この詩集が話題になったのは、実はインターネットの貸本屋さんで貸し出しているからです。結構おもしろい詩集です。ここで貸本屋さんを宣伝するのもおかしいのですが、良かったら読んでみてください。詩集名で検索すれば出てくるはずです。借りてどうだったかを教えてくれるとうれしいですね。私はもう読んじゃいましたから借りません(^^;
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2004.6.1 |
埼玉県さいたま市 |
地球社刊 |
2000円 |
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あの人は
周波数があまりに高いと
あるいはあまりに低いと
私たちの耳には聞こえない
鳥の声も虫の音も
聞こえるものしか聞いていない
私たちに見えても
鳥や虫に見えない色もあるという
あの人に見えて
私に見えず
あの人に聞こえて
私に聞こえない
あの人は私に見えない私を見
私はあの人の見えない部分を
本当のあの人だと思っている
あの人と私に見える
あの人と私に聞こえるもので
私達は繋がれていると考えるのは
現実的ではない
著者は長い間俳句をやっていたようで、この詩集が第一詩集のようです。俳句のことは門外漢なので判りませんが、そう云われてみると「海が見たい」「枇杷のかおり」「やりなおしの年齢」などの作品は切れ味が鋭いように思いました。タイトルポエムの「透明な繭の中から」は「夫や子供たちが去っていったことが夢なのだ」という鍵となる詩句があって、最終連では「お帰りなさい/お帰りなさい/ご飯まだでしょう/美味しいわよ」と締められています。これなどは現代俳句(よく知らないのですが)の原型となるような作品ではないかと思いましたけど、私の力量では解釈が歪むので割愛。それにしてもいい作品が揃っている詩集です。
紹介した作品は著者の一番いい処が出ているのではないかと思います。聴覚・視覚を使って人間の限界と自然界の奥深さを四次元・五次元まで読者に想像させて、最終連ではトドメを刺されます。この次元の扱い方は並ではありませんね。いい詩集に出逢いました。
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2003.11.25 |
東京都新宿区 |
ケイ・ライターズクラブ刊 |
1429円+税 |
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お正月
都心の神社
普段は雑踏から取り残されたような境内に
今日は 人が溢れていた
空は綺麗に晴れ渡り
冷たい風が人々の間を吹き抜けながら
新年の空気を浄化していた
皆がうやうやしく手をあわせ
神妙な態度で頭を垂れていた
年に一度の気紛れな祈りなのか
あるいは日々の祈りの延長なのか
私は いつか偶然見てしまった絵馬を思い出した
限りない我欲を纏った切実な文字で
「あのカップルが別れますように」
「あの人が不幸になりますように」
「あの人が早くいなくなりますように」
誰もが 祈っていた
犯し難い厳粛さを漂わせた面持ちで
「限りない我欲を纏った切実な文字で」というのはかなり辛辣な見方ですが、一面の真実を言い当てていると思います。「あのカップルが別れますように」「あの人が不幸になりますように」「あの人が早くいなくなりますように」と直接書いてあることはないと思うのですが、読み方を変えればそうなるでしょう。あの人と一緒に暮らせますように∞私に幸せが訪れますように∞希望の職場へ異動できますように≠ネどの表面的な祈りの裏返しとして読みますからね。
確かに「絵馬」なんてものは「我欲」しか書かれていませんが、それは時代も背景にあるのではないかとも思います。仮に戦争が早く終りますように≠ネら、我欲ではありますが他人のことも含めていると考えられます。
そういう意味でもかなりおもしろい視点の詩集だと云えましょう。「犯し難い厳粛さを漂わせた面持ち」を見抜く眼を持った詩人の詩集です。
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