きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり

       
 
 
 
「モンガラ カワハギ」
新井克彦画
 
 

2004.8.21(土)

 今日から8月29日までの9日間、2回目の夏休みになってしまいました。半強制の休暇取得を命じられたのです。
 弊社では年間の休暇取得が13日を下回った者は、翌年に「クリエイティブ休暇」として連続5日以上の休暇取得が義務付けられています。私は2年連続でそれを無視して来ましたから、とうとう命令≠ニいう形になっちゃったんですね(^^; 出勤しても休暇扱いにしたり、いろいろ工夫はしたんですけど、13日以上取るというのは難しいものです。
 で、予定を見ると来週しか無い。とうとう取ることにしました。途中で何度か会社に出ようと思っていましたら上司に見透かされて「絶対に出てくるな!」と言われてしまいました。仕方がないので関係者には何かあったら携帯に電話するように言っておきました。やれやれ。会社に行っている方が気分的には楽なんだけどなぁ。

 まあ、いい機会ですから本の整理をやったりパソコンを手入れしたりしようと思っています。どんな夏休みになるやら…。今年はそれ以外に「永年勤続休暇」というものの対象者になっています。これは取る気がありません(^^;





  池田瑞輝氏詩集もっともっと高い木
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2004.4.5
東京都板橋区
ミッドナイト・プレス刊
1800円+税
 

    木に登る

               ひとりぼっちになりたくて
              木に登ったんだ
               てっペんにたどり着いて ぼくは辺りを見回した
               ちょっと離れたところにも
               やっぱり 木があって
               おんなじように ひとりぼっちになりたくて
              木に登り
               てっペんから辺りを見回す人がいて 目が合った
               ひとりぼっちになりたくて
          もっと高い木に登ったんだ
               てっペんまであと少しってところで
               茂った葉に隠れるように
               人目を忍ぶカップルがいて 目が合った
               なんだお前 邪魔すんなよって

               ひとりぼっちになりたくて
       もっともっと高い木に登ったんだ
               てっペんには ひとりのおじさんがいた
               ずいぶん驚いた様子なので 尋ねたら
               借金取りではないかと このぼくを
               借金抱えて地球の上を飛び回るおじさんは
               勘違いしたのだという
               借金なんて簡単にするもんじゃあないよ
               気をつけるさ!
               去ってゆくぼくの後頭部におじさんが声を投げた
               …おじさんこそ
               そう言って振り返ったら 笑っていた

               ひとりぼっちになりたくて
     もっともっともっと高い木に登ったんだ
               そこにもやっぱり人がいたので
もっともっともっともっとずっと高い木はないかと
               交番で尋ねた
               親切丁寧に若いおまわりさんが
               地図まで書いて教えてくれたその
もっともっともっともっとずっと高い木に登ったんだ
               てっぺんにたどり着いて
               まだどこかに誰かがいるのかなと見上げると
               あちらこちらに 空がいくつも浮かんでいた

               ひとりぼっちになれたところで ぼくは
               しゃがみこんでしまった しまったら
               足下に タバコの吸殻が2本 転がっていた
               することもなく 退屈して
               いましがた帰ったところだと言っているみたいに

 おそらく著者の第一詩集ではないかと思います。1、2度お会いしていますが、まだ20代の若い詩人です。ご出版おめでとうございます。
 詩集にはタイトルの作品はありません。紹介した作品からタイトルを取ったものと思われます。詩集は縦書きで「もっともっと高い木」という雰囲気が良く判るのですが、HPは横書きで申し訳ありません。何とか雰囲気は伝わるかな?
 最終連の「することもなく 退屈して/いましがた帰ったところだと言っているみたいに」というフレーズがおもしろいですね。最後に見つけるものは「タバコの吸殻が2本」、人生なんてそんなものかもしれません。若い感性が充満している詩集だと思いました。



  隔月刊誌『原詩人通信』116号
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2004.8
東京都品川区
原詩人社・井之川 巨氏 発行
200円
 

    大石鶴子句抄

   ●晩年(1996〜99)
   川柳を愛し苦しみ生かされる
   戦争と平和を綴じる蝉しぐれ
   義歯は義歯わが一体になりきれぬ
   狛犬はペットにならぬこころ意気
   おめでたくない新年となる齢
   無党派というからっぽを頼りとす
   五十年愛が戻らぬ日章旗
   アメリカが好きになれないきのこ雲
   カッコいい都庁の道のホームレス
   生命まだ五臓六腑の中にある
   みんな逝ってしまった道のひとり
   壁の隅日向の縁のわが居場所
   高齢の反骨生きている証し
   保保ばかり並ぶ不安の民主主義
   密約に悠久の時しばられる
   発禁も窮乏もある誌の歴史(八百号記念)
   粥一椀だけの力が蘇る
   清貧の風いっぱいに開く窓

 井之川巨氏による「反戦詩の系譜」も33回になりました。今号では「大石鶴子句抄」として「前期(1929〜31)」「中期(1957〜74)」「後期(1975〜95)」、そして「晩年(1996〜99)」の50句ほどが載せられています。後期までは『人民の力』誌790号からの抜粋のようです。大石鶴子は1999年5月に91歳で亡くなったそうです。ここでは「晩年(1996〜99)」を紹介してみました。

 川柳は門外漢ですが「狛犬はペットにならぬこころ意気」は毅然としたものを感じて、いい句だと思います。「五十年愛が戻らぬ日章旗」には、「日章旗」に対しても本来は「愛」を持っていたのかと驚きます。「無党派というからっぽを頼りとす」「カッコいい都庁の道のホームレス」「保保ばかり並ぶ不安の民主主義」などの句には社会の矛盾を感じる作者の思想が見え、まさに「高齢の反骨生きている証し」と云えましょう。「清貧の風いっぱいに」感じた句抄です。



  詩誌『インディゴ』30号
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2004.8.15
高知県高知市
文月奈津氏方・インディゴ同人 発行
500円
 

    七千円    木野ふみ

   これで洗濯機を買いなさい
   余ったら郵便局に貯金しなさい

   母がそういって
   七千円くれた

   ありがたき幸せ
   身にあまる光栄

   お礼の言葉をのべ
   全力でぴかぴかにみがいた洗濯機を
   こんなのが買えたぁ!と
   母に見せたときには
   七千円も洗濯機も余った場合の貯蓄も
   とうぜん忘れていて

   すこしするとまた
   これで洗濯機を余ったら郵便局に貯金を
   が始まる
   こんなふうに
   いくたびか繰り返されるうちに
   紙幣が百円玉一個や十円玉三個などになっていったが
   ナナセンエンの地位は揺るがなかった

   母から預かった
   洗濯機代あわよくば貯金もできる金額は
   一万なにがしになっていた

   なぜ
   七千円?

   とうとう聞きそびれてしまったが
   ねこばばしたといえる一万なにがしは
   ずっと箱にしまったままで
   なんとなく困っている

 「七千円も洗濯機も余った場合の貯蓄も/とうぜん忘れて」いるのは「母」なのですね。「紙幣が百円玉一個や十円玉三個などになっていった」のは哀しい話ですけど、作者がそれを微塵も見せずに「こんなのが買えたぁ!」と明るく振舞っている姿に感動します。「余ったら郵便局に貯金しなさい」という「母」の時代の郵便局に対する信頼も時代背景にあって、考えさせられる作品だと思います。それにしても「なぜ/七千円?」。これは読者にも疑問ですね。最終行の「なんとなく困っている」というフレーズも生きていると思いました。



  個人詩誌『思い川』16号
    omoigawa 16.JPG    
 
 
 
 
2004.10.1
埼玉県鳩ヶ谷市
思川舎・桜庭英子氏 発行
非売品
 

    風の栖家    桜庭英子

   この町にきたころは
   毎朝 小鳥の声で目覚めた
   まだ黄色いくちばしで
   寝室の窓をコツコツとノックしたりした
   深いみどり色に染まった町中を飛び回る
   蝶や虫たちの吐息さえ聞こえて
   草花に埋もれたこの地こそ
   終の栖家にふさわしいと満足していた

   けれども
   小鳥もやがて死んでゆく
   そうして自然も病んでゆく
   人も枯れて朽ちてゆくことに
   顔を背けながらここまで歩いてきた

   いずれどこかへと思っていたが
   安住の地などというものは
   どこにもありやしなかった
     こんどこそ なんて思うなよ
     女ばかりか誰にも三界に家なしさ
   男の否定に夢も消えてゆく
   子のない夫婦が何年前か思い立って
   赤文字が並んで刻まれている故郷の墓所
     若いのにまったく用意がいいね と
   笑われた最後の栖家があるにはある
   いまごろは風が住んでいるだろうけれど

   今朝はインフルエンザに罹った鳥か
   いまにも消え入りそうな声で鳴いている

 「赤文字が並んで刻まれている故郷の墓所」という「最後の栖家」に「いまごろは風が住んでいるだろう」という作品ですが、「女ばかりか誰にも三界に家なしさ」という「男の否定」がよく効いていると思います。「終の栖家にふさわしいと満足していた」「草花に埋もれたこの地」は、今は「自然も病んでゆく/人も枯れて朽ちてゆく」場所になって、「今朝はインフルエンザに罹った鳥か/いまにも消え入りそうな声で鳴いている」ように聞こえる、そんなものなのかな人生は、という作者の声が聴こえてきそうです。身につまされますけど、いい作品だと思いました。




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