きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
「モンガラ カワハギ」 | ||||
新井克彦画 | ||||
2004.8.23(月)
昨夜から新しいHPを創っていました。一応、完成です。拙HPと日本詩人クラブのHPを管理しているところへ、さらに新しいHPを創るのはどうかと思いましたけど、今回は出来上がったら別の管理者になるのでやってみることにしました。
何度か書いていますが、神奈川県秦野市に紙芝居喫茶『アリキアの街』というおもしろい処があります。この5月から出入りしていて、当初からオーナーに「HPを創ってくれないか」と言われていたんですけど、忙しさを理由にいい返事をしていませんでした。それが急に2回目の夏休みが取れることになって、よし、この休み中に創ってしまおう!という気になったのです。
文芸関係のHPではないので多少の工夫はしましたが、私のセンスですからね、底は見えています(^^; 昨日、店でオーナーと会って、その辺は伝えたつもりだから、まあ、許してもらいましょう。軌道にさえ乗れば、あとは店の女性従業員でも出来ますからね。
アップできたら当然、このHPにもリンクします。その節は私の多少の苦労を見てやってください。
○個人詩誌『COAL SACK』49号 | |||
2004.8.25 | |||
千葉県柏市 | |||
コールサック社・鈴木比佐雄氏 発行 | |||
500円 | |||
ママコノシリヌグイの謎 鈴木比佐雄
初夏の水辺に咲く
継子の尻拭い(ママコノシリヌグイ)
その群落を見るために
早朝、坂道を降りていく
ピンクの星をちりばめたように咲いている
可憐な花に似合わない名前は
誰がつけたのだろうか
別名のトゲソバを追いやって
なぜこの名が定着したのだろうか
韓国ではこの花の名を
「嫁の尻拭き草」(ヨメノシリヌグイ)*という
朝鮮半島から日本に渡来した花は
嫁と姑の関係をいつのまにか
義母と継子とに変えてしまったのか
わたしは茎のトゲで嫁や継子の尻を
残酷にも拭うことを想像しない
わたしは朝の水辺でなぜか想像する
古代人が朝の儀式のように
水辺の神の前で
顔を洗い 口をすすぐ
水辺の花を楽しみ
昨日の心のトゲをぬぐいさる
おもむろに
嫁と姑が尻をまくって
男たちを笑い飛ばしながら
用を足している
義母と継子が尻をまくって
夫や姑を笑い飛ばしながら
用を足している
トゲに用心して
かたわらの小さな三角形の葉をむしり
尻をぬぐい始める
そんなユーモラスな場面が立ちのぼる
そんな数千年間も愛された花の脇を
早朝にゆっくりと通り過ぎる
*韓国でベストセラーになったフォシ・デグオン著
(「野草手紙−独房の小さな窓から」NHK出版)より
「継子の尻拭い(ママコノシリヌグイ)」とは本当におもしろい名前を付けたものです。それが韓国では「嫁の尻拭き草」(ヨメノシリヌグイ)と云うのには驚きです。作者も言っているように「朝鮮半島から日本に渡来した花」なのかもしれませんね。
「わたしは茎のトゲで嫁や継子の尻を/残酷にも拭うことを想像しない」というフレーズに、作者の本質的な人類愛を感じます。「そんなユーモラスな場面」を想像する作者に、詩人としての度量の広さをも感じてしまいました。鈴木詩にはなかなか現れてこない、珍しい作品だと思いました。
○月刊詩誌『柵』213号 | |||
2004.8.20 | |||
大阪府豊能郡能勢町 | |||
詩画工房・志賀英夫氏 発行 | |||
600円 | |||
神話 中原道夫
ペットをロープで繋いでいるのではない
ペットに繋がれているのが飼い主
あちこちに粗相をする糞の世話までさせられながら
玩具を買ってやるのに
子どものわがままを聞きながら
財布の中身を確かめる父親
ふと見たら赤ん坊を背負っているのは
朝から晩まで働きずくめのご主人で
しゃなりしゃなりと歩いているのは奥様
行列をしながらも
駅のホームのエスカレーターに並んでいるのは
スポーツバックを持った若者
携帯電話のメールに
すべてを支配されながら
それでも大学に通っているという女子学生
そう言えば世界の秩序を唱えながら
テロ以上の殺戮を犯す
一国主義のどこかの国の大統領
猫が鼠に驚いて
逃げだしたという
話も聞いたことがある
神様!
近い将来
地球は逆に回るのでしょうか
「ペットに繋がれているのが飼い主」「しゃなりしゃなりと歩いているのは奥様」というのはよく見かける風景ですが「行列をしながらも/駅のホームのエスカレーターに並んでいる」「スポーツバックを持った若者」もいるんですね。「テロ以上の殺戮を犯す」ブッシュが再選されるかどうか、興味が尽きません。「猫が鼠に驚いて/逃げだした」というのもある得るでしょうね。
本当に「近い将来/地球は逆に回る」のかもしれません。タイトルと最終連がうまく呼応した作品だと思いました。
○詩誌『左庭』2号 | |||
2004.7.25 | |||
京都市右京区 | |||
山口賀代子氏 発行 | |||
500円 | |||
果樹園 山口賀代子
日本海に近い友の果樹園には梨がたわわに実っている
お好きなだけどうぞと友は言った
「仮面をかぶっているつもりでもながくそのままでいると
それがあなたの顔になってしまうから」と
三十年まえ辛口の忠告をしてくれたひとは
妻になり母になり身の丈にあった働きをして
しなやかに歳を重ねている
わたしの果樹園には
絞れば果汁がしたたり落ちそうな果実が
あちらの枝からこちらの枝から熟れた実をのぞかせている
果実は天候に恵まれれば自然に熟してくる
熟せば摘まれ市場へ出回るのだが
わたしの果樹園では他の果実よりはやく熟れ
高級店で食されたいと熱望するのである
ある果実がいった
今は自己主張の世界
黙っていたら熟したことにも気づかれず
家畜の餌になるだけ
別の果実はいう
磨かねば
良い条件で売るためには磨かねば
友の果樹園ではおだやかな時がすぎる
堆肥不足や水不足もなく
果実も等しく実っている
わたしの果樹園にはないゆとりが友の果樹園にはある
どこが違っているのかなというと
友はおだやかな顔をして
愛情をこめて育てただけよと言った
「わたしの果樹園」では今の世の中の主流のように「自己主張」をして「良い条件で売るためには磨かねば」ならないと思っているのですが、「友の果樹園ではおだやかな時がすぎ」ている。それは「どこが違っているのかなというと」「愛情をこめて育てただけよ」と返事が返ってきた。表面的に言っているのはそれだけですけど、奥が深い作品だと思いました。簡単に「愛情」とは言いますが、それは個々人で内容が違います。そこは読者に預けられているようで、考えさせられます。「愛情」とは「ゆとり」なのかもしれませんね。タイトルが良く効いている作品と云えましょう。
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