きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
     
 
 
 
「モンガラ カワハギ」
新井克彦画
 
 

2004.9.2(木)

 9日も休んだあとの週ですから、さすがに今日は疲れました。昨日まではそれほど感じなかったのですが、ようやく出勤4日目で感じられるようになった、ということなんでしょうか。
 まあ、そんな程度の一日でした。可もなく不可もなし(^^;




  詩マガジン『PO』114号
    po 114.JPG    
 
 
 
 
2004.8.20
大阪市北区
竹林館 発行
840円
 

    木魚    モリグチタカミ

   だいじな相談があるというので
   運営委員会が開かれた

   この小さな会館の五年ごとに掛け替えられる
   玄関の絵を選定する会である

   新年度から掛けられる絵の候補が二点あって
   館長がひとりでは決められないという

   Aの絵はいろいろと貢献してくれた人の作品
   Bの絵は先代の館長の所有の絵
   どちらも水彩画であるが高価なものではないという

   二作ともすでに館内に保有されていて
   委員は
   その両方を見た者 片方だけを見た者 どちらも見ていない者に
    わかれる

   絵を見ても見なくても
   それぞれの委員には義理がからんで
   どちらがよいとは言いにくい事情があって
   控えめの発言しか出ない会だ
   だから討議にはならない

   すると早く帰りたがっている一人が立って
   わるいけど さきに失礼しますわ
   わたしは両方掛けたらいいと思っておりますのでと言う

   はあ なるほど そうだ そうだ ということになって
   二つの絵は玄関の両側に向かい合わせに掛けられることになった

   四月になって会館に立ち寄ると
   左に太い樹の幹の浮き出た絵が
   右に濃紺の魚が大皿にのった絵が
   玄関で向き合って掛けられている

   木の絵と魚の絵
   絵であるのに「木」と「魚」とから
   つい「木魚」が連想されてしまって
   これから五年間は入館者を
   木魚がお迎えする
   いらっしゃいませ
   ぽく ぽく

 なんともホンノリとさせられる作品で、思わずニンマリしてしまいました。たかが絵1枚を「ひとりでは決められない」「館長」、「絵を見ても見なくても」「控えめの発言しか出ない会」、「はあ なるほど そうだ そうだ」と納得してしまう「委員」たち。まるで童話か御伽噺の世界のようで、いいですね。我を張る人がいない「小さな会館」の「運営委員」の皆さんに思わず拍手。
 「いらっしゃいませ/ぽく ぽく」には大笑いしてしまいました。「木の絵と魚の絵」のある「小さな会館」に行ってみたいものだと思ってしまった作品です。



  詩誌『きょうは詩人』11号
    kyo wa shijin 11.JPG    
 
 
 
 
2004.8.25
東京都武蔵野市
鈴木ユリイカ氏方・きょぅは詩人の会 発行
500円
 

    浴衣    長嶋南子

   タンスの底にある
   白地に藍色の花もようの浴衣
   三十年来いちども手を通したことがない
   これを着て
   好きな人と連れだって歩くことはなかった
   金魚すくいの網は見あたらず
   下駄の鼻緒にこすれることもなく
   技豆もいっしょに食べなかった

   とおに手の届かないむかしになってしまって
   浴衣にまつわるものがたりは
   ひとつもない
   そのあいだにもご飯はしっかり食べて
   ときどき茶わんを割ってお皿を割って
   そのたびにあたらしいものがたりが生まれ
   なにも生み出さなかった浴衣は
   寝間着にでもするしかない
   前がはだけて
   あられもないかっこうになるけどね

 「とおに手の届かないむかしになってしまっ」たものの象徴として「三十年来いちども手を通したことがない」「白地に藍色の花もようの浴衣」があるのですね。「ときどき茶わんを割ってお皿を割って/そのたびにあたらしいものがたりが生まれ」たけど、「浴衣にまつわるものがたりは/ひとつもない」。そして「なにも生み出さなかった浴衣は/寝間着にでもするしかない」。でも、気をつけないと「前がはだけて/あられもないかっこうになる」よ。「タンスの底に」仕舞ったままにしておいたものの反逆と読み取れるかもしれません。

 そんなふうに私たちの人生は流れていくものなのでしょう。「好きな人と連れだって歩くことはなかった」かもしれないし、別の人とは歩いたかもしれない。それはどちらでも良かったのでしょう、今となってみれば…。そんな怠惰な部分も人生にはあるんだ、そんなことを行間に感じた作品です。



  詩誌『暴徒』52号
    bouto 52.JPG    
 
 
 
 
2004.8.25
東京都練馬区
尾崎幹夫氏方・暴徒社 発行
400円
 

    春へ    尾崎幹夫

   雪がふって
   ぼくは氷にとざされている
   体がうごかない
   と おもうとむねにおもりがのしかかり
   きょうも外にでられない

   ふゆがれのそとを見る
   木の枝にこしかけているものがある
   脳出血で死んだ父だ
   父がいう
   外に出てみろ
   死ぬまでは生きていられる
   その木だけが芽をふいている

   体温があがる
   ぼくをおおっていた氷が霧になってちる

   外に出てみる
   青空がある
   木の枝に もう父はいない

   ぼくはゆっくり歩きはじめる
   ちらばっていたこころが
   ひとつになる

   春を歩こう
   光を歩こう
   生きていられるうちは生きていよう

 「脳出血で死んだ父」に励まされて「外に出てみ」たら、「ちらばっていたこころが/ひとつにな」って「生きていられるうちは生きていよう」と思った、いわば再生の作品ですから「春へ」というタイトルは巧く生きていると思います。「死ぬまでは生きていられる」という当り前のことを詩句として成立させているのも奏功していると云えるでしょう。
 「体がうごかない」「ぼくをおおっていた氷が霧になってちる」というのは、おそらく実感なのではないかと思います。詩作品ですから、作者が実際に体調不良なのかどうかは関係ないのですが、そこは不思議に伝わってきますね。いずれにしろ「春を歩」いて「光を歩」いていただきたいものです。



  個人詩誌『点景』29号
    tenkei 29.JPG    
 
 
 
 
2004.8
川崎市川崎区
卜部昭二氏 発行
非売品
 

    「この肉の歌」より    卜部昭二

   この肉は父母からのものと
   故郷の茫漠たる大地からのものと

   この肉は過去 現在 未来
   快の国への欲求を秘め
   果てしなく旅する

   この肉は眠りの中で夢灯もし
   醒めてまた夢見つづける

 表紙を飾る巻頭作品です。力強さの中に「果てしなく旅する」「この肉」の本質を見つめているところがさすがだと思いました。最終連もいいですね。結局、「この肉」は「夢」を追い求めているに過ぎないことがよく判るのですが、作者はそれを否定的・諧謔的にはとらえてはいないようです。肯定し、むしろいとおしんでいるように読み取れました。それがこの作品の良さであり、作者の持ち味だと思いました。




   back(9月の部屋へ戻る)

   
home