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「モンガラ カワハギ」 |
新井克彦画 |
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2004.9.7(火)
静岡県富士宮市の関連会社に出張してきました。台風18号の影響で新幹線が新大阪から博多まで運休していましたから心配したのですが、小田原〜新富士間は通常通りでした。でも、雨はすごかったですね。送迎車に乗せてもらったのですけど、往復とも前が見えないほどでした。かと思うと晴れ間も見えたりしてね。
仕事は思った以上に順調で、16時には終了。帰りは新富士近辺で呑もうかとも思ったのですが、新幹線が止まってしまう危険性もあるので、とりあえず小田原まで戻りました。小田原では同行した同僚の行き着けの店に寄ったのですけど、いい店でしたね。「くらわんか」と云います。料理が旨かったです。料理には興味がないので何を食べたかは思い出せない(^^;
のですが、コース料理を全部食べてしまいました。お酒は「粋鯨」一本槍。どのくらい呑んだのかな? したたかに酔いましたので3合?4合? そんな程度の量で酔うとは、まだまだ修行が足りないなぁ。
明日も出張で、また呑まなくてはいけないので抑えたのですけどね。呑み始めるとついつい抑えきれなくなります。
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○小山和郎氏詩集『冬の肖像たち』 |
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日本未来派叢書X |
2004.9.15 |
東京都練馬区 |
日本未来派刊 |
1700円+税 |
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折鶴 −T・Kへ−
まるで液体みたいな重たい空気をかき分けて
不意にケーコ姐ちゃん現れたとき
私はいつもの連中と花札を引いていた
患者自治会の用事で
どこへも行く暇がないわけだったけれど
ナイロン・ボイルのスカーフを
きつく向かい結びにした女は
水から上がって来た人のように掌で顔を拭いながら
なにか聞き取れない悪態を低声でつくと
目で私を招いてから
みんなに愛嬌をふりまいた
おめえは本気でキヌコが嫌えなんか?
別に抱いてやれっていってるんじゃねえぜ
だいいちもう永くはねえのは
キヌコだって自分でわかってらぁな
おめえがチロを好きなことだって
知ってるんだぜ
だからよぉ
顔だけぐれえなら毎晩だって出せるだろうが
そういうとケーコ姐ちゃんは
持ってきた箱を開いて一羽の折鶴をとりだした
薬包紙で作ったありふれたものであったが
そう言われてみると
嘴の先から翼の付け根まで
神経ごと折り込んだという気塊が
見えるような気もしてきた
こんなものはそうそう貰えるもんじゃねんだ
心の形見分けしたみてえなもんなんだぜ
おめえにはまだ分かんねえだろうがよ
そう言うとケーコ姐ちゃんは
大きく息を吸ってから私の顔をじっと見つめた
ほどなく来たキヌコの死は驚かなかったが
ケーコ姐ちゃんがチロと呼んだ美少女も
念のためという小さな手術で儚くなってしまった
そればっかりではなく
ケーコ姐ちゃんまでが喀血した血を飲みこもうとして
窒息死してしまった
身内のいるキヌコとチロの野辺送りは
葬送の霊柩車を見送っただけの記憶しかないが
赤線の女だったケーコ姐ちゃん弔いは
いつまでも忘れがたいものだった
棺桶を積んだリヤカーの後を
焼き場のある下の町まで蹤いていったが
途中の山道で底が抜けて
ケーコ姐ちゃんの足が
棺桶の底から突き出してしまった
棺桶の底を補強するあいだ道端の寝かせていた
経椎子のケーコ姐ちゃん思い出すたび
ほんとに好きだったのは
ケーコ姐ちゃんだったんじゃないかと
どうしても思えてくるのだった
詩集は3部に分かれています。Tは1977年に出版した『冬の肖像たち』7篇の再録で、今回の詩集名もここから採っていました。結核の国立療養所を舞台に、生きて娑婆に出られなかった人たちへの鎮魂詩篇集です。Uは、そこは出たものの早逝した人たちへの鎮魂、Vは家族をモチーフした作品集でした。
紹介した詩はUに収められている作品です。「チロ」「キヌコ」「ケーコ姐ちゃん」という3人の女性の比率が適切で、扱い方の巧さに驚きました。だから「ケーコ姐ちゃん」の人間像がうまく浮かび上がってくるのだろうと思います。「ケーコ姐ちゃんの足が/棺桶の底から突き出してしまった」という事件の突飛さも奏功していますね。「折鶴」も象徴的に遣われていて、小山詩の世界を堪能させてもらった作品、詩集です。特に初期詩篇(おそらく第一詩集だと思います)に出会えたことは喜びでした。
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○詩誌『二行詩』3号 |
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2004.8.31 |
埼玉県所沢市 |
二行詩の会・伊藤雄一郎氏
発行 |
非売品 |
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布谷 裕
駅・夕暮
汚水になって改札口に集められている
名札が剥がされて返品は着払い
駅・夕暮
捌き切れない鉄砲水
唖になった人だけがくぐれる取水口
駅・夕暮
能面を外す余裕がない
みな活きの悪い海鼠となって
駅・夕暮
何なのか忘れ物が思い出せない
きびがら細工の人形が箱詰めにされている
駅・夕碁
巨大水族館の回遊魚
逆流にあえぎ暖簾に隠れるはぐれ魚
文字通り「二行詩」だけを載せている詩誌で、紹介した詩は巻頭作品です。「駅・夕暮」という同じタイトルを遣っているところがニクイですね。夕暮どき、「改札口」から吐き出されるサラリーマンの姿がうまく表現されていると思います。私はクルマ通勤が長いのですが、一時期電車を利用した頃もあり、その当時を思い出しながら鑑賞しました。特に最後の「逆流にあえぎ暖簾に隠れるはぐれ魚」というフレーズが気に入って、思わず苦笑してしまいました。
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○井上嘉明氏詩集『地軸にむかって』 |
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2004.9.1 |
東京都千代田区 |
砂子屋書房刊 |
2000円+税 |
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消しゴム
きれいに包装された 小さな四角体が
楽しげにころがり落ちる
子どもたちの操る
ゲームコーナーの機械のアームが
消しゴムを やさしく撫で
すくいとっている
あのころの消しゴムは
砂の混じった乾肉みたいで
いくら用心しても
簡単に紙を破るのだった
言葉を書き連ねさせないための
策略のように――
管制で外は暗い
わたしは
性急に何を書き
何を消していたのだろうか
「食べないで下さい」の
注意書きを無視して
わたしは ピンク色の
キャンデーのような消しゴムをかじる
口の中に
甘い香りが
罪のようにひろがる
書き残したいもの
書き残したくないものが
入り混じる ほろにがさを
噛みしめている
あとがきに次のような箇所がありました。著者の詩に対する姿勢が示されていて、重要な部分だと思いますので、それも紹介させていただきます。
ほんとうは、詩にあまり大きなものを背負わせてはいけないのだと思う。日
常の中の、ちょっとした揺らぎのようなもの、小さな食いちがい、あるいは違
和感が詩を書く、ひとつの理由になった。それが次第に広がるとき、
<生> や
<存在>
のふしぎさに触れる喜びに変わることもあった。ふしぎさを感じるこ
とは年々増えるばかりだが、その実体は相変わらず、ぼんやりとしている。な
かなか掴みきれないもどかしさが残る。
「詩にあまり大きなものを背負わせてはいけない」という思想に共鳴しますね。詩が本来持つ役割を端的に述べている箇所だと思います。そんな著者の思想を念頭に置きながら詩集を拝見していて、「消しゴム」という作品に出会いました。「消しゴム」から受ける「日常の中の、ちょっとした揺らぎのようなもの」が見事に具現化していると思います。「言葉を書き連ねさせないための/策略のように――」消しゴムを見ている眼は新鮮です。「書き残したいもの/書き残したくないもの」をも考えさせられます。
著者が詩にいかに真摯に立ち向かっているかを感じさせる詩集です。
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