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「モンガラ カワハギ」 |
新井克彦画 |
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2004.9.8(水)
関連会社との会議で、都内に出張してきました。昨日は富士宮市、今日は都内と、まさに東に西に≠ナ、さすがに疲れましたね。15時から始まった会議は予定の17時を大幅に過ぎて、結局19時近くになってしまいました。でも、呑み会はしっかり付き合いましたよ(^^;
明日は呑み会がないんですが、金曜日には職場の歓迎会があって、今週は呑んでばかりですからちょっとセーブしました。日本酒は好みのものが無かったので焼酎にしたのですが、呑みたかった「中々」があって、思わずコレッ!と叫んでしまいました。弊社を代表しての呑み会ですからマズカッタなぁと反省しています。でも相手の会社は皆さんは、そんな私の性癖はとっくにご存知で、大人の対応をしていただきました(^^; 呑んでも弊社の社員であることを忘れずに、、、意外と難しいのですがガンバリマス。
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○前田美智子氏詩集『銀幕だより』 |
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2004.8.20 |
東京都台東区 |
コンサルアーツ獏出版刊 |
2000円+税 |
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今、このときなにを
今、なにをいうことができるだろう
スクリーンを正視できず 目を覆ってしまうわたしに
物語は ポーランド・ワルシャワ ユダヤ人一家を軸に始まる
ナチス・ドイツ侵攻で 激変の運命は 急坂をころげ落ちるよう
ゲットー生活 ホロコースト 速いテンポでおそいかかる
これでもかと……それは容赦ない当時の再現
ついに主人公以外(老父母、妹、弟)絶滅死の収容所へ
<人はそのような死に方をしてはならない 断じて>
<人は過去に学ぶことができないのか なぜ>
暗い空間にきしむ 観客の声なきうめきが
ひとり免れた主人公(ピアニスト)必死の逃避行
命がけ協力者の助けで隠れ家を転々 せりふぐっと少なく
生きのびる極限のとき 観客も共に刻々切迫のきざみ
外界をのぞく「窓」どちらが現実か どちらも悪夢
ゲットーユダヤ人の武装蜂起とその結末 果しない惨劇
ただ見ているしかない焦燥、無力感
彼は想像上のピアノ演奏で かろうじてのぞみをつなぐ
食うや食わずの数カ月 街は戦場になった
もはや精神力、本能だけ蹌跟 間一髪と逃れてゆく
その時は来た ある夜ついに見つかってしまう
ピアニストと知ると そのドイツ将校
ショパンの旋律(しらベ)ひびきゆく
なにか弾くよう命じた
廃墟の <魂> に 今わの<時間(とき)>に
――ショパンは 弾くことも 聴くことも禁じられていた
しんと聴き入り 将校は黙って背を向けた
はっと息をのむ彼の表情 <生と死>
一瞬の閃光
――のち食べもの 外套差し入れられ
ショパンのピアノ曲で幕はおりたが……
今、このときなにをいうことができるだろう
(註)映画「戦場のピアニスト」(ポーランド・フランス合作)より
監督・ロマン・ポランスキー(ポーランド)ゲットー生活体験者
原作「回想録」(ウワディスワフ・シュピルマン)主人公
☆救ったのはドイツ将校(ホーゼンフェルト)。ピアニスト他何人かを
救う。戦後、戦犯収容所にて一九五二年死亡。ホーゼンフェルトをさ
がしだしたシュピルマンは、なんとか救うべく直談判するものの果さ
れず。シュピルマンは欧米にて音楽活動で名を残し二〇〇〇年88歳で
亡くなる。
3部に分けられている詩集で、Tは詩集タイトル通り観た映画に想を得た作品、Uは絵画に刺激された作品ほか、Vは絵画や映画に関するエッセイ集になっていました。紹介した詩はTに収められている作品です。
あとがきでは読書と同じ程度の量の映画を観ているとありましたから、年に2〜3編しか観ない私などとは比べものにならない鑑賞量だと思います。話題になった中国、イラン映画などもみているです。その中で「戦場のピアニスト」は私も観ましたので内容が良く判り、紹介した次第です。たしかTVでも放映されたように思いますから、観た人も多いかもしれませんね。思い出してみると、たしかに「今、なにをいうことができるだろう」と繰り返される詩句に集約されるのかもしれません。「暗い空間にきしむ 観客の声なきうめき」も共有体験です。詩人はいかに映画を観るか、そんな命題の回答のような作品だと思いました。
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○個人誌『むくげ通信』23号 |
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2004.9.1 |
千葉県香取郡大栄町 |
飯嶋武太郎氏 発行 |
非売品 |
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クォー サン
あの世の敷居で 具 常
わたしも八十歳半ばになったし
若くして肺の手術を二度も受けて
呼吸機能がおとろえ門外に出ることもできず
家の中でも酸素吸入器を鼻に挿したまま
かろうじて日々を持ち堪えつつ暮らしている
わたしでさえ訝しいこの長寿を
ただ神霊なる摂理なのだと甘受しつつ生きてはいるが
ひたすら家族や周りに
これ以上の苦痛を与えずお連れして下さい
とだけ祈っている
しかしながら実際にあの世の敷居で
わたしの歩んできた生を振り返ってみると
外面はなんとなく尤もらしいが
内面は凶悪で不届き極まりなく
いかに際限のない慈悲にゆだねていても
主の前に進み出ることが真に恐ろしく
父上や母上の顔も拝めず
先だった妻にも二人の息子達にもあわせる顔がなく
あの世の因縁たちに逢うのが恥しい
あのような私の罪過とともに
今日のわが同胞と国 さらには人類世界の
この道徳的麻痺状態や悲劇的状況が
主の権能と慈悲で救援救出されることを
息絶えるその一瞬まで
祈りつつ逝くつもりである
「高貞愛訳・飯場武太郎訳」
この詩は本年五月十一日、具常詩人が永眠される直前に
竹筍文学三七号に発表されたもの。
今年亡くなった韓国の著名詩人・具常氏の絶筆なのかもしれません。作品の上でしか知らない詩人ですが、最期まで高潔な人だったのだなと改めて思います。「外面はなんとなく尤もらしいが/内面は凶悪で不届き極まりな」いのは、私にこそ向けられるべき言葉でしょう。あと何年、何十年生きられるのか知りませんが、「あの世の因縁たちに逢うのが恥しい」思いをしないような生き方が、これから先できるかどうか、はなはだ心もとない思いもしています。この作品はそんな風に我が身を考えさせてくれるものだと云えるでしょう。ご冥福をお祈りいたします。
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