きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
     
 
 
 
「モンガラ カワハギ」
新井克彦画
 
 

2004.9.18(土)

 神奈川県秦野市の紙芝居カフェ「アリキアの街」に行ってきました。10月30日に奥野祐子さんのライヴをやってもらうことにしたので、その下見に奥野さんにも来てもらいました。ピアノの調子はまあまあだったようですが、マイクがイマイチで、これは奥野さん自身が持って来てくれることになって一安心。本来なら店側で用意するのでしょうけど、儲かっていないようですからね、好意に甘えることにしました。

 ひととおり下見と試し弾きが過んだところで、店のイベントでチンドン屋をやることを聞きつけました。近くの老人ホームから出前紙芝居を頼まれたそうで、そのついでにチンドン屋をやりながら乗り込もうということらしいです。もともとこの店は趣味でチンドン屋をやっているグループが練習場として造ったものですから、いわば初志貫徹ですかね。おもしろそうなので奥野さんも私も見物に付いて行くことにしました。ところが……。

 チンドン屋の隊長(昔、国会議員もやったことのあるというヘンな人(^^; )が言うことには、老人ホームへの慰問のようなつもりで行くのだから、たとえ見物とは謂え皆と同じようなチンドン屋の格好をしてくれなくては困る、カジュアルな格好で行ったのでは先方に失礼になる、というのです。妙に説得力がありましてね、同意しちゃいました。
 で、奥野さんも私もチャイナ服に着替えて付いて行くことにしたのですが、件の隊長はお年寄りを前に全員の紹介をしなければならんから芸名をつけろ、と来ました。奥野さんは大阪生まれだから「浪速のリリー」、私は南足柄市に居住していますから「足柄山の銀次郎」と決まって、なんか、その気になってきました(^^;

040918.JPG   老人ホームでの一場面です。
奥のピンクの上着を着たのがヘンな隊長、小泉さん。
手前の浴衣姿は座長で店主の小坂さん。
紙芝居実演はお店のじゃじゃ姫。
総勢7名で押しかけました。









 隊長は、ド素人の二人は何もしゃべるな、と打合せでは言っていたのですが、紙芝居が終ると豹変して、いきなり奥野さんに何か歌えと命じてきました。奥野さんも慣れたものらしく身振り手振りおかしく歌い出しましたね。まあ、ライヴをやっている人ですから、歌はお手のものなんでしょうけど、客慣れしていると云うのか、視線を一身に集めてヤンヤの喝采を浴びていました。ところが……。

 私にも歌えと言うのです、いきなり。そんな準備はしていないし、まったく突然でしたから動転しました。でも、ここでモタモタするのは全体を壊すことになりますから、覚悟を決めて歌集を開いて飛び込んできたのが「瀬戸の花嫁」。昔、花嫁だった人が目の前にごちゃごちゃ居るじゃありませんか。これだ!と思いましたね。「昔、一度は花嫁だった方がいっぱいいらっしゃいますね。二度、あるいは三回花嫁だった方がいるかもしれませんが…」と始めてしまいました(^^; ふぅ。

 結局、チンドン公演を含めて店にいたのは午前11時から午後18時まで。長い一日で、初めての体験もしました。奥野さんのノリがいいことも判って、10月のライヴも自信を持ちました。そういえばチンドンもそうだけど、老人ホームに行ったというのも初めてです。サラリーマン生活では味わえない体験をさせてもらいました。




  個人詩誌Quake9号
    quake 9.JPG    
 
 
 
2004.9.25
川崎市麻生区
奥野祐子氏 発行
非売品
 

    SKIN

   車にはねとばされ
   首と足の骨を折る大怪我をした
   あの時だって
   あのすさまじい痛みに耐えられたんだ
   もう 何が襲ってきたって平気なはず
   でも 毎日毎日
   時計の針にチクチクと
   たえまなく刺されている この感触
   これは何だ?
   はじめは
   くすぐったい いたずらのような
   小さな小さな気がかりが
   ついには 毎秒ごとに
   注射針のように
   わたしの皮膚に侵入してくる
   やけどのような チリチリとした
   たえまない痛みになる
   もしも この痛みを注視したら
   はっきりと自覚し 意識してしまったら
   自分の体にできた無限の刺し傷が
   ぜんぶ あらわになってしまう
   全身の傷口からにじみ出てくる血のにおいと色に
   頭がおかしくなってしまう
   だから こうして
   今日も 外に出かけ
   知り合いや 未知の人たちに会いに行き
   彼らも 同じ傷があるのを確かめては
   一日を やりすごす
   肝心の自分の傷は見て見ぬふりで
   毎日毎日
   針はつきることなく刺してくる
   「痛い!痛いよ!」 そう
   思い切り叫ぶことができたら
   どんなにいいだろう だけど
   痛みは耐えようと思えば 耐えられなくもない
   わたしさえ口を閉じれば
   傷など まるで なかったみたいに
   平和な日々
   ああ コトバも知らなかった
   生まれたばかりのわたしの皮膚は
   いったい どんな色をしていたんだろう
   どんな手触りだったんだろう
   わたしは知らない 無傷の自分を
   傷一つなく 完璧だった自分を

 当日、奥野さんからいただいた個人詩誌です。たった4編の作品が載っているに過ぎない小さな詩誌ですが、作者の傷≠ェあちこちに見える号だと思いました。
 紹介した作品はそんな典型と云えましょう。「痛みは耐えようと思えば 耐えられなくもない」、そんな傷を私たちも持ち続けて生きているように思います。そんなことは作者はとっくにご存知で、「彼らも 同じ傷があるのを確かめて」います。そして回帰するのは「コトバも知らなかった/生まれたばかりのわたし」。是非はあるでしょうが、気をつけなければいけないのは、回帰するのはあくまでも「皮膚」である点でしょうか。徹底的に「自分」を見つめながらも「皮膚」に拘る点がこの作品の持ち味であるように思います。なぜ「皮膚」なのかは「はじめは/くすぐったい いたずらのような/小さな小さな気がかりが/ついには 毎秒ごとに/注射針のように」というフレーズから考えなければなりません。おそらく「今日も 外に出かけ」るように、外部との接点という認識なんでしょうね。そんなことを考えながら鑑賞した作品です。




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