きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
     
 
 
 
「モンガラ カワハギ」
新井克彦画
 
 

2004.9.29(水)

 改良製品の方針決定会議が午前中開かれました。東京本社と工場の技術者が私の職場に集まって、喧々諤々、、、でもないけど、まぁ、しっかりやりあいました。結論はGO! 来年1月末までに試作品を評価して市場展開します。特殊な製品ですので一般には出回りませんが、業界ではヒット製品になるかもしれません。おお、そうだ、特許はどうしよう!? 話はでませんでしたけど取れるかもしれません。特許を取って、会社から報奨金をもらって、、、。これを取らぬ狸の何とやら、と謂います(^^;



  季刊文芸誌『南方手帖』78号
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2004.10.1
高知県吾川郡伊野町
南方荘・坂本 稔氏 発行
800円
 

    パラダイス    玉井哲夫

   ぼくの起源は
   わからない
   ぼくの無意識は
   今もそこと繋がっている
   ぼくの頭蓋に収まっている
   どこまでも落ちてゆく深みが
   ぼくのふるさとだ
   太古の海水が
   ぼくの体を循環しているように
   眠りは
   ぼくをそこに帰す
   ぼくは毎日
   眠らずにはいられない
   ぼくが少しずつしか目覚めないのは
   眠りの中を往復しているからだ

   ぼくが
   密林でも砂漠でもない
   農村に生まれた理由は
   わからない
   もう少し早く生まれていたなら
   ぼくは大陸か南洋諸島で
   戦死していたかもしれない
   ぼくが死なないですんでいる理由は
   わからない
   救われるということが
   飢えている時に
   食べ物を与えられるようなものだとしたら
   ぼくは救われることはない
   ぼくは飢えたことがないし
   食べ物を簡単に捨ててしまう
   だが
   鰯の缶詰を前にして
   ふと思う
   ぼくは
   すでに救われているのではないか
   戦死もせず
   飢えもせず
   何の不足があろうか
   鰯を食べれば鰯に
   救われているではないか
   ぼくは毎日
   食べずにはいられない

   生きることは
   殺すことだが
   殺すために生きるのはよそう
   殺される側のものたちの救いは
   ぼくにはわからない
   ぼくの体に
   目的がなく
   意味がなくても
   ぼくは
   そこから出発せずにはいられない
   眠りから覚めるたびに
   思う
   毎日が
   ぼくの出発だ

 「ぼくの無意識」が「今もそこと繋がっている」そこ=A「眠り」が「ぼくをそこに帰す」そこ=A「ぼく」が「そこから出発せずにはいられない」そこ=Aいずれのそこ≠焉uパラダイス」のことだと思います。その前提で最終連の「眠りから覚めるたびに/思う/毎日が/ぼくの出発だ」というフレーズを見ると、この作品の深さを知ることができると思います。
 「農村に生まれた理由」「ぼくが死なないですんでいる理由」が「わからない」というフレーズから、作者は私と同世代の人ではないかと思いますね。「もう少し早く生まれていたなら」「戦死していたかもしれない」世代なのです。
 「生きることは/殺すことだが/殺すために生きるのはよそう」というフレーズにも惹かれました。これは名言として遺るように思います。



  詩誌ERA3号
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2004.9.30
埼玉県入間郡毛呂山町
北岡淳子氏方・ERAの会 発行
500円
 

    白い尻っ尾の狐が    清岳こう

   隣村から嫁とりのその夕間暮れ ほほのほのぼのと 陽の照り雨が降りました う
   ち重なる杉の山は薄墨にけぶりたち 天まで続く棚田はかたむく夕日に染められ
   葦の蔭からは蛙の歌もおごそかに

   おごそかに 山の峰をたどり峠を越え ちょうちん行列は里に向かい箪笥長持ち歌
   ものどやかに 紋付羽織袴の男衆を先に立て 花嫁の駕篭は盛大に燃えさかる迎え
   火の下をくぐり

   くぐり抜けた姿を見ればなんと三国一の花嫁御寮 うつむいた角隠しのかげで目元
   ははじらい 唇は山茶花の紅色にくっきりと 箪笥二棹長持ち三棹の その中は練
   り絹金欄緞子貝合せの小箱漆金彩の化粧道具一式 飲んで歌って舞い舞って めで
   ためでたの若松さまよ 呑んで謡って扇うちかえし鉦太鼓

   はて 白無垢打掛の花嫁御寮はどこだ 箪笥長持ち冷蔵庫プラズマテレビにDVD
   スポーツカータイプの赤い車はどこだ 高学歴高収入キャリアウーマンの都会的な
   女はどこだ

   あとには
   師走つごもりの山風が吹きわたるばかり

 要は「狐」に化かされて話なのですが、「冷蔵庫プラズマテレビにDVD/スポーツカータイプの赤い車」「高学歴高収入キャリアウーマンの都会的な/女」ときますから、妙なところが現代的でおもしろいですね。現代の「狐」という意味なのかもしれません。
 「おごそかに」「くぐり」と、前の連を受けているところは古典的な雰囲気を醸し出し、その実は現代。その落差に魅力を感じます。最終連はまた古典へと戻って行くようで、時間の処理の巧さにも感心した作品です。



  詩誌『驅動』43号
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2004.9.30
東京都大田区
驅動社・飯島幸子氏 発行
350円
 

    真逆のときに    周田幹雄

    母象に連れられた子象が 川岸から短い鼻を伸ばして
    水を飲んでいたが
    突然 川岸の土が崩れて
    真っ逆さまに川へ落ちてしまう
    一瞬 子象は 流れに飲み込まれそうになるが
    母象は 慌てる風もなく
    長い鼻を子象の短い鼻に絡ませて
    溺れる寸前の子象を引き上げてやる

    何ごともなかったように
    母象と子象が 大きな尻と小さな尻を並べて
    ゆったりと帰って行く

   そんなCMがあるが
   あれは 偶然 川岸の地面が崩れたのではない
   CM撮影のために
   スタッフの誰かが カメラの枠の外で
   子象の尻を棒切れで叩いたのだ
   川岸は 子象の体重で崩れるように
   事前に 細工されていたのだ
   母象は スタッフと入念に段取りをしたから
   あんなに 悠然としていられたのだ
   飲む筈の水に飲まれてしまったので
   懲りた子象としたら
   母象と一緒でも
   二度と あの川岸で 水は飲まないだろう

   物事の見方としては この方が正しくはないか
   長くても短くても それぞれ 人生の途次で
   必ず 不幸に見舞われる
   齢
(よわい)を重ねるにつれて 不幸ばかりが襲ってくる
   不幸なんて 大抵 誰かに仕組まれたものなのだ
   真逆の 酷い目に遭ったら
   密かに 棒切れを後ろ手に隠した奴を探すことだ

 民放をほとんど見ないので「そんなCM」を実は知らないのですが、確かに「物事の見方としては この方が正し」いと思います。考えてみれば、そんな偶然を撮るのは奇跡的かもしれませんからね。
 作者の視線にはいつも感心するのですけど、「不幸なんて 大抵 誰かに仕組まれたものなのだ」というフレーズには思わず頷いてしまいました。社会科学論的に謂えば社会構造上の「不幸」に帰するのかもしれません。だから「真逆の 酷い目に遭ったら/密かに 棒切れを後ろ手に隠した奴を探すことだ」という論≠ノは納得させられます。現代詩が求めてきた寓話の典型を見た思いです。




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