きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
     
 
 
 
「モンガラ カワハギ」
新井克彦画
 
 

2004.11.6(土)

 会社で、部対抗の運動会がありました。以前は夏祭りがあって、部ごとに出店をだして結構楽しかったのですが、O-157騒ぎ以来中止になり、そんなイベントが無くなってしまいました。その代りということで有志が計画したようです。かれこれ10年ぶりですかね。

041106.JPG    私は広報誌の写真を頼まれて、出場は1種目だけ。あとはひたすらNIKONの一眼レフデジカメD70とコンパクトデジカメCOOLPIX-3700で撮りまくっていました。100枚は撮りましたね。左の写真はそのうちの1枚で、大縄跳びの場面です。誰が縄を引っ掛けたか一目瞭然(^^;
 この写真は縮小していますのでよく判らないのですが、コンパクトデジカメながらピントもよく合って、写真を撮る楽しみを堪能できました。一眼レフはもちろんもっと楽しいです。

 チームは全部で7つ。結局、うちの部が優勝して第1回目の覇者となりました。会社の中でも一番儲かっている部ですから、自然と勢いが出るのかもしれません。工場の中では1/10の人数で半分以上の営業利益を上げていますからね、鼻息荒い(^^;

 楽しかったけど疲れました。夕方は『アリキアの街』のイベントに出ようと思っていましたけどダウン。ゆっくり夕寝をさせてもらいました。ごめん!




隔月刊詩誌『石の森』124号
    ishi no mori 124.JPG    
 
 
 
 
2004.11.1
大阪府交野市
交野が原ポエムKの会・金堀則夫氏 発行
非売品
 

    ツギハギ    佐藤 梓

   わたしなんてものは
   はじめからなかったのよ
   だってわたしは
   すべてつなぎあわせの
   つぎはぎにんぎょう
   きのうのかんがえは
   どこかのほんにかいてあった
   きょうのことばは
   だれかがもうすでにいったこと
   きっとあしたすることも
   ただのものまねでしかない
   だからわたしは
   ほんとはからっぽ
   そとがわつぎはぎで
   なかはからっぽ
   だれかのしそうやだれかのことばが
   ただからからと
   はんきょうしているだけの
   ねうちのないにんぎょう
   だからねぇ
   あなたがみているのはわたしじゃないわ
   だってわたしなんてものは
   はじめからなかったんですもの
   からっぽのなかみに
   きのうみたてれびのちしきが
   ちょっところがってて
   それがぽろりとこぼれただけ
   そう
   わたしなんてものは
   はじめからなかったのよ
   いってることもかんがえてることも
   すべてかりもの わたしのものじゃないわ
   もし
   わたしのものがあるとしたら
   きっと
   からっぽのしたのほうにたまっている
   あなたをおもうきもちだけ
   うたううたのうらがわにながれる
   このことばにならないこころだけ

 「そとがわつぎはぎで/なかはからっぽ」というのは、実は誰もが感じていて、しかし云うに云えない…。そんな感覚をうまく表現した作品だと思います。それにしても「きのうのかんがえは/どこかのほんにかいてあった/きょうのことばは/だれかがもうすでにいったこと/きっとあしたすることも/ただのものまねでしかない」というのは当っているだけにキツイですね。ほんのちょっとの違いを大袈裟に言い立てて作品化するのが詩や文学なのかな、とは日頃思っていることです。「きのうみたてれびのちしきが/ちょっところがってて/それがぽろりとこぼれただけ」と云うのもキツイ。

 そんな自分だけど、「あなたをおもうきもちだけ/うたううたのうらがわにながれる/このことばにならないこころだけ」というのは、好いフレーズだと思います。若い人のようですが、これが言えるのが若い人の特権ですから大事にしてほしいですね。
 平仮名だけというのも、読者に一字一字への集中力を要求していて奏功している作品だと思いました。



詩誌『海嶺』23号
    kairei 23.JPG    
 
 
 
 
2004.10.20
さいたま市南区
杜みち子氏代表・海嶺の会 発行
非売品
 

    共犯者    桜井さざえ

   初航海から戻った進栄丸は港に錨を下ろした
   新造船の軸先に立った父は
   泳いでいる子供たちを手招きして
   船端から綱梯子をするりと下ろし
   こわごわ上る子供たちの手を引き寄せる
   広々した船上を駆け回る子供たち

   「船から飛び込めるか」と父が言った
   男の子は顔を見合わせ俯いた
   私は船端から海を見下ろし首を振った
   「よし わしが飛び込むか」 シャツを脱ぎ
   筋肉嶐々の父の両足が 船端を蹴って宙に舞い上がる
   海面を割り飛沫が吹き上がり 白々泡立つ
   太陽の光が鋭い剣になり 父を貫き海底まで

   水輸が大きく拡がり徐々に消え 静かに漣をたて
   潮風が 覗きこむ子供たちの髪を逆立てる
   太陽が背にじりじり照りつける
   「船長のおっちゃん息が長いのう」
   気楽なタカシの声 皆黙って顔を見合わせる
   私はドキドキ胸が早鐘を打っている
   船の艫 軸先と駆け回り 反対側の海を覗きこむ
   ばしゃ ばしゃ 波が船体を洗っている

   船腹に張り付いている大蛸−いいえ父
   船底を潜り 反対側に泳ぎつき ひと休みしている
   父は大きな手で顔をつるんと撫ぜ
   悪戯っ子のように 片目をつむり笑った
   私も片目をつむり 笑いながらそっと手を振った
   青ざめた皆の顔をゆっくり見回しながら
   「うちのお父ちゃん ほんまーに 息が長いわー」

   クジラが潮を吹き上げ飛沫が飛び散った
   泡が盛り上がり がばっと海面に現れた
   潮焼けした父の真っ白い歯がこぼれ泡を吹く
   わぁーいー歓声があがる 手をたたく
   「船長のおっちゃんクジラみたいじゃ」
   「ほんまー溺れ死んだかと思ったが」
   小さな手が次々父の身体を触る
   私は寄り添い 眼と眼でうなずく
   父と私は楽しく皆を騙した

 「父と私」が「楽しく皆を騙し」て「共犯者」となった、という作品ですが、好い詩ですね。現代詩には無い健康的な明るさを感じて、こちらが「楽しく」なります。こういう底抜けの明るさが現代詩にもっとあってもいいのではないかと思います。
 しかし、逆説的には、過去の話と受け止めてしまいました。もちろん「父」はすでに亡くなっているはずです。それを、このように明るく描くのはどういうことなのだろう。亡くなったからすべてオシマイではなく、作者の記憶の中では今でも生き生きと生きていると捉えても良いのでしょうが、それだけで良いのだろうかという疑問が残ります。おそらく「父」の年齢に近くなった作者の気持の整理のような作用が働いているのではないか。下司の勘ぐりですが、そんなことまで考えてしまいました。

 作品として見た場合にはそこまで考える必要はないのかもしれません。健康的な一石を投じた、と捉えましょう。ただ、作品を鑑賞する場合には、表現された裏を読み取る必要もあるのではないか、と思う次第です。これらの作品が詩集というまとまった形になれば、もう少しマトモなことが言えるかもしれませんね。失言をお許しください。




   back(11月の部屋へ戻る)

   
home