きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
     
 
 
 
「モンガラ カワハギ」
新井克彦画
 
 

2004.11.20(土)

 神奈川県秦野市の紙芝居喫茶『アリキアの街』で「田川紀久雄&坂井のぶこ詩語りの世界 ―日本人の声の源流を求める旅―」と題したライヴを行いました。

041120.JPG    いやぁ、正直なところこれほど凄いとは思いませんでした。CDでは聴いていましたし、三味線なしでしたが田川紀久雄さんの地声での朗読は聴いていました。しかし、こうやって生身の人間が二人で掛け合いで、しかも三味線・鉦の鳴り物入りですから並の朗読とは違います。
 自作詩、宮澤賢治作品そして金子みすゞとレパートリーも多彩で、2時間なんてアッという間でした。田川さんのダミ声と坂井さんの澄んだ声が見事なハーニモーを聞かせていました。
 アリキアオリジナル「菊花の約」の紙芝居もやってくれて、これには絵の作者も感激していました。多芸多才というところですね。

 今回も私はコーディネーターということで挨拶させてもらいましたけど、集まってくれた人は10人ほど。積極的な呼びかけをしなかったことを悔やんでいます。お二人は気にもしなかったようですが、主催者側としては反省しきりです。
 まあ、それはそれとして好い夜でした。今後も機会があれば続けていきたいものだと思っています。その節はメールをバンバン出してお誘いしますのでよろしく!




季刊詩誌『濤』5号
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2004.11.28
千葉県山武郡成東町
いちぢ・よしあき氏方 「濤」の会 発行
500円
 

    記憶の穴    伊藤ふみ

   わたしはいつだっていい子になんかなれなかった
   母さんが手をつないで歌をうたってくれなかったから
   わたしは少女の目で花や蝶を歌えなかった
   かちかんだ気持ちに息を吹きながら
   ニワトリにハコベをあげた
   ニワトリはよろこんで食べた
   生きたミミズもあげた
   ニワトリはミミズもつっついた
   死んだセミもカナブンもあげた
   ニワトリはなんでもつっついて飲み込んだ
   小さな赤い鶏冠
   小さな頭でとっとっと走って食べた
   誰もいない午後だった
   母さんも妹たちもいない
   真昼のニワトリ小屋に入った
   ニワトリは卵を生んでいるところだった
   わたしはそれをじっとみていた
   濡れた白い玉がぼろっと出ると
   素早くそれをつかんだ
   なまあたたかいニワトリの体温が伝わる
   ニワトリがわたしの指をつっついた
   怒りのまんまる目がこっちを睨んでる
   わたしは卵をニワトリにぶつけた
   ニワトリの羽根が黄色く汚れた
   ニワトリは割れた殻をつっつき
   ついでにだらりと垂れた白身と黄身も食べてしまった
   わたしは泣きながら家にもどった
   母さんと妹は縁側でゆで卵を食べていた
   わたしの頭の中は
   自分の子どもを突っついて食べたニワトリのことだった
   次の日 生まれたての卵をとって飲んだ
   血の匂いのする薄気味悪い液体が
   ノドから体の底にたまって
   卵はのっペりお腹の中で臭い出した
   わたしは取り返しのつかない意味を知った
   母さんはニワトリだった

 最初の「わたしはいつだっていい子になんかなれなかった/母さんが手をつないで歌をうたってくれなかったから」と、最後の「母さんはニワトリだった」が巧くつながっている作品だと思います。内容的には「わたしは取り返しのつかない意味を知った」ことに尽きるのでしょうが、構成は見事ですね。母性性をこんなふうに見る作品には初めて出会ったような気がします。作風の変化が感じ取れ、今後も楽しみな作者です。



児童文芸誌『こだま』25号
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2004.11.10
千葉県流山市
保坂登志子氏方・東葛文化社 発行
非売品
 

    心の重さ    門 望未  小五

   人の心には 重さがある
   自分が悪いことしたなぁ とか
   かなしいなぁ と思ったときは
   心が ドーンと重くなって
   なみだをためるところがなくなって
   なみだが出てくる
   自分が 楽しいなぁ とか
   うれしいなぁ と思ったときは
   心が ファーと軽くなって
   心が うきすぎて
   笑いぶくろにぶつかって
   笑ってしまう


    消しゴム

   消しゴムは 自分の身をけずって
   人間の間ちがいを
   なかったことのように 消してくれる
   小さくなって もう使えない とすてられる
   人間は 自分の身をけずってまで
   人の間ちがいを消そうとしない
   消しゴムは やさしいなあ

 小学校5年生の門さんの作品はふたつとも優れているので、このHPは1冊1作紹介を原則にしているのですが、あえて2作を紹介してみました。「心の重さ」も「消しゴム」も視点が好いですね。「心が ドーンと重くなって」「心が ファーと軽くなって」という対比は当り前なのかもしれませんが、こうやって改めて書かれると納得するものがあります。「人間は 自分の身をけずってまで/人の間ちがいを消そうとしない」というフレーズもズキンと胸を打ちます。
 将来が楽しみな小学生ですね。いつまでもこの視線を忘れないでいてほしいものです。



詩誌『山形詩人』47号
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2004.11.20
山形県西村山郡河北町
高橋英司氏編集・木村迪夫氏 発行
500円
 

    信号    高橋英司

   猛烈なスピードで私の車を追い越していった車が
   次の交差点では停車している
   登校中の小学生の一団が
   黄色い小旗を持ち
   ていねいにお辞儀までして
   横断歩道を渡っていく
   信号が青に変わるやいなや
   前の車は猛烈な勢いで発進し
   みるみるスピードを上げていって
   瞬く間に遠近法の点になってしまったが
   次の信号でもその車は停まっていた
   道路を横断する人はいない
   律儀にルールを守っている
   信号が変わると
   再び同じことの繰り返しで
   前の車はあっという間に遠ざかっていった
   それからしばらく
   田園風景の中をドライブし
   信号もなかったので
   二度と同じ車に追いつくことはなかった
   あの車はこの先々の交差点でも
   同じように停車し
   信号の赤を今か今かと睨んでいるのだろう

 確かにこういう車がいますね。山形も神奈川も同じか、と思って、フッと考えると、この作品は日本人の特質を見事に描いているのではないかと思い至りました。性急だがルールは守る。そのルールも赤信号という非常に危険なことは例え「道路を横断する人はいな」くても「律儀にルールを守っている」。でも「猛烈なスピード」「みるみるスピードを上げて」という、ことスピードに関しては無頓着。そのルール無視は自分勝手な安全だ≠ニいう解釈。まあ、そんな特質を考えてしまいますね。
 「登校中の小学生の一団が/黄色い小旗を持ち/ていねいにお辞儀までして/横断歩道を渡っていく」けど、彼らもいずれは同じになるんだろうなぁ、と、そんなことまで考えてしまった作品です。




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