きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
「モンガラ カワハギ」 | ||||
新井克彦画 | ||||
2004.11.23(火)
わが町、神奈川県南足柄市の郷土資料館に行ってきました。10月16日から11月28日までの予定で「小田中と高女の文士たち
―新小田原高校の創設を祝って」という特別展が開かれています。旧制小田原中学(現・小田原高校)と小田原高等女学校(のち小田原城内高校)が合併して新・小田原高校となったことを記念した催しです。小田中出身者として牧野信一・尾崎一雄・川崎長太郎・北原武夫・薮田義雄が、高女出身者として壷田花子・大垣千枝子・貞松瑩子の著作、原稿などが展示されています。
そのうち、詩人・貞松瑩子さんは30年来のおつき合いをしていただいている方で、ご亭主の遠丸立さんと供に訪れるというので車で送迎させてもらいました。写真は作品を背景にした貞松瑩子さんとのツーショット。貞松さんとのおつき合いについては、最新の『漉林』122号に書かせてもらっていますので、機会のある方はご覧ください。 展示室はそう大きなものではないのですが、貞松さんのコーナーはかなりの面積を占めていて、郷土資料館側の配慮のほどが窺えます。11月28日までやっていますので、お近くの方は是非どうぞ。 館長は杉山幾一さんで、この地方では有名人です。親しくお話しさせていただきました。二人で嘆いたのは、地元・南足柄市には展示したいような文人がいないこと。うーん、確かにそうなんです。小田原市ばっかりですからね。埋もれた人がいないか探してみたいものです。 |
○遠丸立氏詩集『童話』 | ||||
1997.7.7 | ||||
東京都調布市 | ||||
方向感覚出版刊 | ||||
1800円 | ||||
中毒散
にんげん みな中毒患者
中毒と手の切れたにんげんなんて いるものか
中毒で生き 生かされる
それが生 にんげんの生というもの
生きるって 中毒に罹る別名
アル中も薬中もニコ中もコカ中も みんなみんな
ギャン中カー中バイ中テレ中ゴル中コマ中
カメ中犬中音中食べ中色中 みんなみんな
―それに山チュウなんてのもある
かぞえたてれば際限(きり)がない
いや もっとある
読みチュウ書きチュウなんてものや
コトバを紙の上でひねくりまわす中毒もあって
重患を 詩人 という
郷土資料館へご一緒したときにサイン入りでいただいた詩集です。紹介した作品は詩集の巻頭詩です。「生きるって 中毒に罹る別名」というのは名言ですね。「重患を 詩人 という」という最後のフレーズには思わず納得してしまいました。
「私生児」「6分 私は幸福だった」「奇蹟の星」「尿と宝石」などの作品にも惹かれました。「長岡弘芳へ」は亡くなった長岡さんへの鎮魂詩で、何度かお会いした長岡さんを偲びました。
○遠丸立氏詩集『一歩二歩三歩…五歩六歩』 | ||||
2000.10.19 | ||||
東京都調布市 | ||||
方向感覚出版刊 | ||||
2000円 | ||||
この夏は良い事が
夏至
はじめて四つ児ちゃんに遭う
知人宅に降って湧いた四つ児誕生
小公園を横切っていた
ママが声をかけてきた
まったく ぱったり こんなところで
ただし おふたりだけ
あとの二人は お寝んねの最中
広場をよちよち よたよた お母さんと散歩
傍ら 二人用ベビーカーが人待ちがお
お歩きの練習らしい
一歩二歩三歩…五歩六歩
あたまを撫でる
地面の木の葉をひろって 手渡してくれる
「はじめまして」のごあいさつ?
いつもなら 悲しみが 霧のように湧く日
さあ この夏は良い事が起る
短くなった日照りのお返し
詩集タイトルの「一歩二歩三歩…五歩六歩」と表題のついた作品はありません。紹介した作品の1フレーズから詩集タイトルとしたのですね。粋なタイトルの付け方だと思います。
他の作品からも窺えるのですが、著者は無類の子供好きのようです。「地面の木の葉をひろって 手渡してくれる」というのは私も何度か経験していることなのですけど、それが「ごあいさつ」とまでは思い至りませんでした。子供の目線に立つことができる著者だからこそ出てくる言葉なのでしょう。目線というものを考えさせられた作品・詩集です。
○詩と評論誌『日本未来派』210号 | ||||
2004.11.15 | ||||
東京都練馬区 | ||||
西岡光秋氏 発行 | ||||
840円 | ||||
翻訳 倉持三郎
ワタクシハアメリカ兵ノ首ヲキリマシタ
ウシロ手ニシバッタママデ
地面ニスワラセテ
日本刀デ首ヲキリマシタ
ジジツヲミトメマス
私は一語一語
間違えないように
英語に翻訳する
ワタクシノ家ハ大空襲ノトキ焼カレマシタ
ニゲオクレタ父卜母ハヤケシニマシタ
ワタクシハ落下傘デオリテキタ
アメリカ兵ノ首ヲ切リマシタ
カタキウチデス
胸を張って供述する青年の姿が浮かぶ
しかし私は知っている
戦闘行為を放棄した兵士は
捕虜として「人道的に」あつかわねばならないことを
高専でこっそり見せてもらった
国際協定に 明記されていた
−生きて虜囚の辱めを受けず じゃないんだよ
アメリカ兵の首は切ってはいない
後ろ手にも縛っていない
地面に座らせてもいない
日本刀も持っていない
アメリカ兵は落下のときの怪我で死亡したと英語で書きたい
証拠は十分である
本人もはっきりと事実をみとめている
捕虜の首を切るという残虐きわまる行為は許されない
ジュネーブ協定に明確に違反している
供述には反省の色もない
野蛮な行為を自慢するニュアンスもある
罪状は明確だ
軍事法廷の裁判官は 無表情な声で
「デス・バイ・ハンギング」と判決文を読み上げるだろう
アメリカ兵を殺すことが捕虜虐待だとは
だれにも教えられなかった
なんとか協定など一度も聞いたことがない
B29に乗って来て焼夷弾を落として人を殺しておきながら
落下傘で下りてきて
捕虜だから助けてくれとは虫がよすぎる
敵地に降りてきたのだから殺されても仕方ない
親を殺された仕返しだ
私はこの仕事から得る収入のことを考える
ふつうの会社の月給のゆうに五倍はある
この仕事を続ける限り
私は栄養失調で死ぬことはない
親にもいくらか送金できる
何よりも私は大学に行きたい
その金を貯金したい
原文と違った訳をして
処罰されたり 職を失いたくない
私の書く英語の一語一語が
青年を絞首綱に一歩一歩 近づけるのを知りながら
私はまじめに一生懸命に供述書を翻訳していく
決められた期限に間に合うように
そろそろ目標額がたまる
私は一語一語 正確に 翻訳していく
歴史の証言と言える作品だと思います。GHQによる戦争犯罪裁判という事態に立ち会った「私」の苦悩が表出しています。「胸を張って供述する青年」も「まじめに一生懸命に供述書を翻訳していく」「私」も、同じ戦争被害者でありながらその前途には大きな違いがある。そこに矛盾を感じながらも「一語一語 正確に 翻訳していく」苦悩は計り知れないものがあると思います。あれから60年、今、まさに問い直さなければいけない時期に投げかけられた問題作だと思います。
○門田照子氏詩集『桜桃と夕日』 | ||||
2004.11.10 | ||||
東京都東村山市 | ||||
書肆青樹社刊 | ||||
1900円+税 | ||||
正しい日本語で
モウシモシ オネイチャン…
受話器からのたどたどしい声は
スイスで生まれ育つ二歳の野笑(のえみ)の日本語
野笑の語彙にはまだババが存在しない
だからわたしは嬉しいオネイチャンでいる
一人っきりの孫に逢いたいと思う
逢いに行こうと思う
飛行機に乗って海こえ山こえ
チューリヒ湖畔のアパルトマンの四階へ
わたしはたちまちオネイチャンではなく
オバアチャンだと正体を見破られるだろう
いっしょにお絵描きをして折り紙をして
おまえの知っているフランス語を習おう
おまえの小さな身体を抱いて眠ろう
わたしは途方もなくババ馬鹿でいよう
たとえ平和ボケと言われようと
いいではないか
せっかく人間に生まれたわたしの
たった一つのいのちが
娘から孫へと繋がったのだから
大切に生きる幸せを伝えたい
おまえの未来に不安が兆さないように
ガイドライン関連法は戦争マニュアルだと
後方支援は参戦協力だと
あいまいでない言葉を知っていよう
からくりや誤魔化しのない
わたしにできるだけの
正しい日本語で語ってゆこう
わたしもおまえも
戦争よりも平和ボケでいる方が
幸せに決まっているのだもの
「正しい日本語」について考えさせられます。政治によって歪められた「あいまい」で「からくりや誤魔化し」に満ちた日本語の哀れさにがっかりしているだけに、この作品には励まされる思いをしました。そして「たとえ平和ボケと言われようと/いいではないか」とも思いますね。「たった一つのいのちが」「幸せ」を求めるのは当然のことなのです。
「耳のはなし」「窓のうちそと」、タイトルポエムの「桜桃と夕日」、「うたた寝と氷菓子」「神サマの在所」「火炎忌」などの作品にも魅せられました。長い詩歴に裏打ちされた感性豊な詩集だと思います。
○星善博氏詩集『水葬の森』 | ||||
21世紀詩人叢書・第U期6 | ||||
2004.11.30 | ||||
東京都新宿区 | ||||
土曜美術社出版販売刊 | ||||
2000円+税 | ||||
雪夜
屋根は 屋根なりに
垣根は 垣根なりに
でこぼこの 道は道なりに
雪はすべてのかたちを あいまいにおおいつくす
ばん
死ぬ前の日まで頑固だった婆のしゃがれ声
しわでとじられた白い顔よ
この冷たい雪の下で 鎮まれ
日に 酒一升 女ひとり じん
自分の家を建てるのだけが仕事だった爺の赤ら顔
この冷たい雪の下でほてりを鎮めていよ
縁側でくずおれていった幼い姉
色とりどりのおはじきが
小さな体をおおうように散らばっている光景だけが
いまでも頭の片隅でかすかなひかりをはなっている
幼いあなたにも この雪で冷やさなければならない
ほてった思いがあったのだろうか
竹にしがみつき じん
小学校の音楽室の メトロノームのようにゆれていた風の爺
あなたの守りつづけた竹林は とっくに消えてしまったよ
風の爺(じん)の 変わり果てた地べたに
雪よ しみこめ
ぶいち
いつもからかわれてばかりだった ぼんぼの武一
こんな夜 閻魔淵(えんまぶち)の切り立った帽子岩のてっペんで
不自由な片足をかばいながら 鬼か天狗と
生まれ育った村を見下ろしているのだろうか
うーうーと ついに言葉を発することのなかった坊主頭に
雪 ふりつもれ
森は 森なりに
川原は 川原なりに
土饅頭は 土饅頭なりに
雪はすべてのかたちを あいまいにおおいつくす
できることなら雪よ
真夜中の天に向けて大きくそらした
発熱しつづけるこの喉仏も
その冷たい白であいまいにおおいつくし
葬り去ってしまえ 永遠に
著者の第2詩集で、紹介した作品は詩集の最後に置かれていました。それまでに作品として見せてくれた「婆」「爺」「姉」「ぼんぼの武一」が一堂に会して、いわば詩集の総まとめのような作品と思って良いでしょう。見事な構成だと思います。
この作品で注目すべきなのは最終連でしょう。亡くなった人、いずこかへと消えた人と同じように「この喉仏」を持つ私≠ウえも「葬り去ってしまえ 永遠に」と結んでいます。村に生れて都会生活をする私≠フ、村への決別と採るか、再生と採るかは読み方で変ってくるでしょうが、私は後者ではないかと思っています。現代人の持つ深層を見事に表出させた詩集です。
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