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「モンガラ カワハギ」 |
新井克彦画 |
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2004.11.27(土)
何の予定もない休日。一日中、本を読んで、朝寝、昼寝、夕寝して(^^;
過しました。いただいた本を読んでいる時間より寝ている時間の方が長かったかな? そういう休日も嬉しいものです。
○詩とエッセイ誌『千年樹』20号 |
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2004.11.22 |
長崎県諌早市 |
光楓荘・岡 耕秋氏
発行 |
500円 |
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尺とり虫 和田文雄
村の学校の一、二生が総勢して繰り出してくる
芽出しまえの桑ばらという桑ばらに
遠くからは蜘蛛の子を散らし
近くでは楽しげな囀りのひびき
桑の枝から枝へ目が動き手がのびる
一日がかりで桑の木の尺とり虫を見つけ
一匹一匹とつまみとる
手にした空瓶に少しずつ掴まえた
尺とり虫がたまっていく
体の尺をとられると人間は終りだという
尺はとられないぞと
灰色の虫をとっていく
くにゃくにゃとして ときどき背伸びして
だまって尺をとっていく
蛭みたいに人や動物の血は吸わない
だいいち人間の肌はすべっこくて
居ごこちが悪い
とった虫を役場や農会の人が集めていく
桑の新芽を食われると新ぼえが伸びなくなる
農業科の訓導のいる学校の野外教室
学校を一日休みにして
村中で桑を育て家中でお蚕を養い
繭をつくり絹をつくる
春さきの村の行事
私の子供の頃にはこういう「春さきの村の行事」はありませんでしたが、「学校を一日休みにして」ですから、おもしろいし実用的な行事だったのでしょうね。「蜘蛛の子を散らし」たような様子が見え、「楽しげな囀りのひびき」が聞こえてくるようです。
「体の尺をとられると人間は終りだという」意味は判りませんでした。辞書には尺を取る→寸法を測る≠ニいうことしか書かれておらず、当然そんな意味ではないと思います。あるいは寸法を測る≠ニいうことから転じて、棺桶の大きさを測ることに通じるのか、などと想像しています。無くなった行事とともに無くなった言葉(単に私が知らないだけかもしれませんが)にも思いを馳せた作品です。
○福原恒雄氏詩集『Fノート』 |
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2004.11.5 |
東京都台東区 |
ワニ・プロダクション刊 |
1200円 |
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勝手なノート
生きていて
敗戦になって
壁が焼け残った倉庫改造のアパートの
ベニヤ板一枚で仕切られた三畳間で
ほそい手足はほそかった
食いたいだけにある腹は
きょうも共同炊事場で水道蛇口をつかまえただけだった
運河の石崖に錆びる単調な下水の音にもふらついて
一日三百円にもならない歯刷子売りは
手のとどかない天井の鉄の格子の嵌まった小窓から
他人の顔してのぞく明かりに
助けてくれえ! と
人まねであっても
声
かすれ
透き通っていく心音
ねずみ色に変わる空に 叩かれ 叩かれ
被せた屋根のトタンの摩擦音に
おもいだしたように戦時の思想がめくれて
気が狂う在獄の
理由を
すべなく笑う
背のびする獄舎の小窓から見た塀際の乙女椿の
その一枝のひかりが
まぶしすぎたのを忘れない
両国の運河沿いはもう夕日が溶けて ひとは
ようやく静かに
一日のくらしを仕舞うか
陽をまだらにする影たちのいる机上で
勝手に茶いろになったノートは
飢えのためにすぐに酔いつぶれる深夜の酒宴もなく
悲鳴のように思われようと
明日はきっと笑う挨拶をしてやろうと
まだ気色ばんでいる
今年2冊目の詩集です。1年に2冊出版するなんて、すごい! どうして2冊になったということについて、あとがきでは「味の違いからどうしても一冊に組み得なかった」と書いています。そう言われてみると確かに前詩集『跳ねる記憶』とは違いがあります。前詩集では思考の拡がりを感じましたが、この詩集では深まりを感じています。
詩集タイトルの「Fノート」という作品はありません。紹介した作品がタイトルに近いかもしれませんが、そこを詮索するのはあまり意味がないと言えるでしょう。「生きていて/敗戦になって」、「勝手に茶いろになったノート」に意味があるように思います。おそらく現在まで持ち続けている「ノート」、物理的にはともかくとして精神的に持ち続けているノート、ととらえています。「手のとどかない天井の鉄の格子の嵌まった小窓」のある「壁が焼け残った倉庫改造のアパート」は無くなって、「獄舎」のような生活も無くなったけど、そこがモノを書く原点だったと解釈しています。前詩集と合せて読むと水平方向・垂直方向が良く判って、より面白いと感じた詩集です。
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