|
|
|
|
|
|
|
「モンガラ カワハギ」 |
新井克彦画 |
|
|
2004.11.29(月)
3日も会社に行かないと、さすがに仕事がたまっていましたね。書面を片付けてEメールを読んで、必要な指示をだして、アッという間に定時の17時。もちろん終るわけがないので、今日は19時まで働きました。そこで区切りをつけて帰宅したんですけど、まだ仕事は残っているなぁ。昼メシもカップラーメンにして、10分ほどしか掛けなかったんですけどね。ま、明日またがんばります!
○詩誌『しけんきゅう』143号 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
2004.12.1 |
香川県高松市 |
しけんきゅう社
発行 |
350円 |
|
蝉が…… 水野ひかる
銀色の金具に沿って
漆黒の闇の布の
ジッパーを引いてゆく
夜具を湿らせる 昨日の夢
重い瞼を眼球に被せて
視界ゼロの道をゆく 暁闇
双眸を曇らせ
見えるものを見ず
見えないものはさらに見ずにいた日々
蝉の一声が
斜めに横切ってゆく
あれは
わたしを鋭く叱る声
脳天を一撃されたような 朝
飛び立ってしまった真理のぬけがらを
かっと 見つめる
第1〜3連の主語は「わたし」とも「蝉」とも採れて、そこがおもしろいですね。もちろん作者の意図通りなのかもしれません。第4連、最終連の主語は「わたし」。この2連を軸としてもう一度第1〜3連に戻ると鑑賞としては完璧だと思います。
「飛び立ってしまった真理のぬけがら」とありますから、「真理」は「蝉」と考えて良いでしょう。そこでタイトルの「蝉が……」が活きてくると思います。「脳天を一撃されたような」と「かっと 見つめる」も巧い相乗効果を出していると云えましょう。短い詩ですが、構成の巧さ・内容の深さで読ませる詩だと思いました。
○季刊文芸同人誌『青娥』113号 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
2004.11.25 |
大分県大分市 |
河野俊一氏 発行 |
500円 |
|
のら猫 多田祐子
夜更けに
ドアの所に立ち
身体を固くし
ねむれないの と言う
私はフトンをもちあげ
おいで とうながす
両手を胸の前で胎児のように組んだまま
鼻をならしながら
冷えた身体をすりよせてくる
けっして自分からは抱きつかず
私は両手で抱き寄せ
背中をたたきながら
いいのよ いいのよ 眠れないときは
ねむらなくて と繰り返す
呪文をとくように
人は皆心の中に
のら猫を一匹飼っているのかもしれない
それが
月の美しい夜や
風の強い日に姿を現し
せつなげに泣きだすのだ
もう一緒に泣きだすこともなく
あやしてやるのだ私
いいのよ いいのよ
眠れないときは ねむらなくて
両手で抱き寄せ
背中をたたきながら
私のなかの のら猫を
今号は <特集・多田祐子>
と題されて、詩2篇・随想2篇・同人の多田祐子評が載っていました。同人評を拝見すると、随分お若い女性のようです。紹介した作品にも若い女性特有の優しさを感じますね。最初は現実の「のら猫」かと思ったのですが、「心の中」の「のら猫」だと判りました。しかし、実際の野良猫だったとしてもこの心根は変らないだろうなと想像できます。そこが若さなのかもしれません。
プロフィールに「できればいつか 一冊だけ詩集を出したい」とありましたが、1冊と言わず2冊でも3冊でも出して、日本の詩界を支えて欲しい人材だと読み取りました。
○詩誌『コウホネ』16号 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
2004.11.25 |
栃木県宇都宮市 |
コウホネの会・高田太郎氏
発行 |
500円 |
|
私の二十六日 相馬梅子
今日が別れの日
母とわたしは暗黙のうちにそう思いきめていた
祖母 伯母 従兄
夫の生みの母 育ての母
月は違うが二十六日旅立っている
空は青く澄み さわやかな十月
天国に旅立つには本当に穏やかな日
白い天馬 白いやさしい駁者
映画「幻の馬車」がうかぶ
死者だけに聞こえる馬車の音
母はこの日のため
一週間前から口をつぐみ食物をこばんだ
旅立ちの準備だったのか
暦など知らぬはずなのにやすらかに目をとじている
おだやかな寝顔
唇がかわくだろうと水をふくませた布をそっとあてる
母は唇をきゅっとうごかす
ああ こんなに意識がはっきりしてる
あたたかい母の手
しずかに しずかに心をこめて撫でる
もう反応を示さぬ手
働いて 働いて 働いて
手拭で髪を被い蒲団の綿入れをしていた若い日の母の笑顔
「わたしはみんなに好かれるの」と
病院の看護婦のやさしさを喜んだ母
さまざまのドラマ 膨大な書籍のように
百三歳と六ケ月
母は二十六日に旅立った
「今日が別れの日」と決めた「二十六日」に「百三歳と六ケ月」の母上も「旅立った」のですね。哀しくない訳はないのに、淡々と語られる作品に、正直なところ驚いています。「母はこの日のため/一週間前から口をつぐみ食物をこばんだ」というのは、本来は肉体的な現象なのでしょうが、それさえも「旅立ちの準備だったのか」と、いわば納得していることに、逆に「母とわたし」の絆の強さを感じます。
無関係に者が言うのもおかしいのですが、見事な「旅立ち」で、うらやましくさえ思います。こうなれたらいいな、こういう形で私も別れることができたら最高だな、と感じた作品です。
(11月の部屋へ戻る)