きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
     
 
 
 
「モンガラ カワハギ」
新井克彦画
 
 

2004.11.30(火)

 今日で11月も終りですね。明日からは12月。本当に1年なんて早いものだと思います。この1年、何をやってきたのかな? いい出会いが公私ともにいっぱいあって、それが最大の収穫だろうと思います。なかでも画期的だったのはチンドン屋をやったことかな(^^; ライヴの仲介もやらせてもらって、これも初の試みとしては成功だったろうと思います。あと1ヵ月、まだまだ新しいことに挑戦してみたいですね。



詩誌『黒豹』107号
    kuro hyo 107.JPG    
 
 
2004.11.27
千葉県館山市
諌川正臣氏方・黒豹社 発行
非売品
 

    うめや
      ―むめとみね―    前原 武

   おふくろの名は むめ
   営んだ小料理屋は梅家
(うめや)と言った
   おふくろのほかに活きのいいねえさんがいて
   ひとえまぶたのきりっとした顔立ち
   みねちゃんだ
   夏の宵 二階の花火見物の騒ぎに
   とんとんとんと駆けおりてきて そとの溝に声もなくあげ
   店にもどるや 紺地の帯をぽんと叩き
   「さ のみなおし」
   ふたたび駆けあがっていく小またの切れ上がりよう

   その夜だ
   下町
(しもちょう)と南町(みなみちょう)の若い衆(わかいしゅ)同士が取っ組み合ったのは
   取り替えたばかりの帳場の畳の上で
   くんずほぐれつ どたんばたん
   小さい方が苦しまぎれに
   「 殺してやるっ」と叫ぶ
   物音におりてきたみねちゃんに 長火鉢のおふくろは
   「 包丁そとへ」
   台所へすばやいみねちゃん
   ぼくは上
(あが)り口の陰ではらはら

   勝負は ほどなくつく
   くやしさに 目が熱くなった
   鼻血を出した小さい方は この界隈の少年リーダーだった
   春は野球 球も声も空に飛ばし
   夏は海 秋は山に メンバーをキャッキャッ言わせた
   だから あのだみ声に

   「 ふたりとも もう おかえんなさい」とおふくろ
   みねちゃんは 負け男にちり紙を渡している
   気障なシャツの下町
(しもちょう)の野郎が 先に
   この町の哀れな青年は うなじを垂れて出ていった

   みねちゃんの顔姿が そとの暗がりからぽっと
   新聞でくるんだ包丁を前に持ち
   「 霧よ 」とぼくに言う
   もう何十年前のシーンだ
   ぼくはいま うめやのもと帳場に坐っている
   泣くような犬の遠吠えが聞こえる
   おふくろは
   奥の遺影に 変わらぬ澄んだ表情
   みねちゃんは
   郷里の坂の上で とてもいい名の喫茶店を営
(や)っている

 人物がよく描けている作品だと思います。もちろん「みねちゃん」が一番ですけど、「おふくろ」も「小さい方」も生き生きとしていますね。そして実はそれを見ている「ぼく」も結果的に良く描いてしまっているのです。「ぼくはいま うめやのもと帳場に坐っている/泣くような犬の遠吠えが聞こえる」というフレーズに見事に現れていると思います。最終連の「郷里の坂の上で とてもいい名の喫茶店を営っている」も効いています。「もう何十年前のシーン」ですが、読者もスーッと入っていける作品だと思いました。



個人詩誌Quake10号
    quake 10.JPG    
 
 
 
2004.11.25
川崎市麻生区
奥野祐子氏 発行
非売品
 

    うつくしいもの

   うつくしいものは こわい
   傷一つないその完壁な様子をみていると
   どこかに一つ こっそりと爪で ひっかき傷をつけてみたくなる
   おまえだってさ そうやってすましてるけど
   ほんとは無傷なわけないだろ?な! そういって
   ちゃかして 笑ってしまいたくなる
   しかし
   ホントウに うつくしいものは あるのだ
   たったひとつ わたしのなかに
   「うつくしい」と わたし自身が気づいたとたん
   たちまちくずれて 消えてなくなってしまう
   永遠に わたしのしらない わからない
   うつくしいものが
   たった ひとつ

 およそ現代詩≠ノおいては「うつくしい」なんて言葉は遣いません。抽象・概念である「うつくしい」を、どう具体化するか、どういう喩を用いて表現するかを考えるのが現代詩≠セろうと思います。たぶん、それは正しくて、私は今後もその方向を崩すつもりはありません。
 しかし、この詩の場合は違うんですね。この詩では「うつくしい」でなければダメなんです。1行目の「うつくしいものは こわい」というフレーズがこの作品の全てだと思います。いい詩句です。「うつくしい」と「こわい」という、二つの抽象・概念で新しい世界を見せてくれました。これを具体化しても意味がありませんね。この詩句は残るだろうなぁ。

 「うつくしい」でなければダメな作品に出会ったのはこれで2度目です。私の敬愛する詩人に福原恒雄という先輩がいます。この人が30年ほど前に美しいばかりの朝 ぬんめりと≠ニいうフレーズを書いたことがあります。これもシビレましたね。美しい≠ニぬんめり≠フ見事なハーモニー(^^; 意味はまったく違いますが、それに匹敵する力を「うつくしいものは こわい」というフレーズに感じた次第です。




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