きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
「モンガラ カワハギ」 | ||||
新井克彦画 | ||||
2004.12.4(土)
ある医学学会と弊社が共同開発・発売した製品が15年経って、記念懇談会が八重洲で開かれました。私は当時、その分野とは違う仕事をしていましたが現在の弊社側の品質担当者ということで出席を請われたものです。この分野はすでに成熟しており、正直なところ弊社としてもそれほど力を入れているわけではありませんが、医療関係は他の分野より供給責任を問われる度合いが高いですから、それなりの人員・設備を配置して市場の要求には対応しています。懇談の中で中心的に研究を進めてくれて、この分野では世界的権威の医学博士から報告があったのですが、驚いたことに新たな使用分野を研究しており、学会からも注目されていると言うのです。発表は医学の専門分野の話ですから、とても理解が及ばないことばっすりでしたけど、その熱意には頭の下がる思いをしました。こうやって弊社は支えられているのだなと改めて納得した次第です。
当日の出席者です。懇親会の方は仕事を離れた個人的なことを全員が話すように求められ、皆さんご家族のことを話す人が多かったですね。医者も人の子、と言ったら怒られるかな? 私は新参者ですが他の人たちは15年来の、謂わば同志ですから、まるで同窓会の雰囲気で和気藹々としたものでした。 |
会がハネた後に東京本社の営業マンに誘われて、丸の内のoazoに行きました。知らなかったのですが7階にシガーバーがあるんですね。葉巻も置いてあって、久しぶりに堪能しました。せいせいと葉巻を吸って、バーボンを呑んで、いい夜だったなあ。土曜日の出張かヨと少々スネていましたけど(^^;
これだけでも充分満足、シアワセです。
○詩誌『流』21号 | ||||
2004.9.9 | ||||
川崎市宮前区 | ||||
宮前詩の会 発行 | ||||
非売品 | ||||
つり糸 中田紀子
五十年あまり
水層ふかくに 水綸を楽しんできたが
つれたものは
マイナスの目だつ預金通帳一冊
つり竿の急なゆれ幅 重みに撓む曲線に
ときめき まなこが釘づけになる
水中から水しぶきをあげて顔をだしたものは
がらんどうの部屋一つ
むかし八本の手がはみだして
四つのくちからは 歌がこぼれていた
いまは四本 そして二本へ
忙しかったくちは 小さくすぼんでいる
それでも何か かかりはしないかと
水底に向かって 密かに垂らすひとすじ
月光も届かない すみずみまでの深淵よ
鈍くひかる糸のさきには まだ何かあるのか
動かない水面に
厳かにたちあがってくるものが
「水綸」はおそらく作者の造語ではないかと思います。「綸」は太い糸という意味があって、同じ読みの垂綸≠ヘ釣り糸を垂らすこと・釣をすることとありますので、ここでは釣を「楽しんできたが」と読んでよいかと思います。そんな前提で鑑賞してみました。
「つれたものは/マイナスの目だつ預金通帳一冊」というのはご愛嬌だと思いますが「いまは四本 そして二本へ/忙しかったくちは 小さくすぼんでいる」というフレーズには胸を打たれました。最終連の「厳かにたちあがってくるもの」をどう解釈するかでこの作品の方向は大きく別れますが、私は良い方に採りたいですね。その方が作品全体の均衡もとれるのではないかと思います。
○アンソロジー『etude』5号 | ||||
2004.10.20 | ||||
東京都新宿区 | ||||
NHK学園 発行 | ||||
非売品 | ||||
夏 田中万代
消えてしまった
しばらく放っておいた詩集の
一番大切な頁を開いたら
真新しいシーツのように白かった
でも あれは全部おぼえていると
確信してペンをとったが
どうしたことか何も出てこない
思い余って作者に電話したが
何度かけても留守なのだ
外へ出る
異常な暑さだ
誰もいない
白猫は物陰に潜んで動かない
信号が変わる 歩きだす
口に出して言ってみる
印刷された頁が突然消えてしまうなんて
思い違いに決まってる
一番大切なんて いつ決めたんだ
しかし もう一人の わたし は
なにも言わずに
消えた ことば を掴まえようと
熱気のなかを さ迷っている
「詩集の/一番大切な頁を開いたら/真新しいシーツのように白かった」というのはおもしろい発想ですね。「もう一人の わたし」がいるというのも好い設定だと思います。「印刷された頁が突然消えてしまう」という、謂わば幻想と「異常な暑さ」が説得力を持つ作品だと思いました。
○詩誌『潮流詩派』199号 | ||||
2004.10.1 | ||||
東京都中野区 | ||||
潮流出版社 発行 | ||||
525円 | ||||
トイレットペーパーを買いに 中田紀子
カチャッという新聞配達の音を耳に
ようやく寝つくものだから
朝は トースターやカップやジャムなどが
天気予報図のように波うっている
半開きの眼をしてりんごの皮を厚く剥くから
1/8の外側は曲線にならない
斜めに見上げる空は曇っている
錆ついたものを剥がし 剥がし
何とかひからせようと修復をこころみる
あきらめて ようやく
無気力の人を追い出すように
ゆがんだままのシャツやパジャマを乾す
隈のできた目のまわりに
明るめのアイシャドーをぬり
痩けた頬にピンクのファンデーションを重ね
あちこちに跳ねあがっている髪の毛を濡らし
まるで戦地へ赴くように
トイレットペーパーを買いに行く
食べるから トイレットペーパーが要る
トイレットペーパーを使うから 再び食べる
この単純な反復がうまくいかなくなる日
人はきっと死ぬのだろう
わたしは 呼吸を塞がれた者のように
いきる証の往復には もうどんより疲れきっている
店頭に積み上げられたぐるぐる巻きの束は
わたしが生物であることを黙したままみせつける
鶏 牛 豚 カラス と何の違いもないのだと
うずくまり ちらっと『沈黙の春』を想うが彼女だって……
陰っている海や森林や大気や土に生息するものたちの行方より
十二ロール・お得な二重 が大切なのだ
はるか砂漠の地には求めても不足してるだろう
かつて暮らした町ではパラフィン紙のようにパリパリして
そっとひっぱっても十センチのミシン目で必ず切れる仕組みだった
ここではガソリンをまき散らして絹肌のロールを買いに行く
錆ついたものは剥がすことができない
曇天にいびつの曲線が波うって
おもしろい作品ですね。「まるで戦地へ赴くように/トイレットペーパーを買いに行く」のは「食べるから トイレットペーパーが要る」ため。そして「トイレットペーパーを使うから 再び食べる」。「この単純な反復がうまくいかなくなる日」が必ず来るのだけど、やっぱり「十二ロール・お得な二重 が大切なのだ」。この諦念とほのかな希望に惹き込まれます。最終連の「曇天にいびつの曲線が波うって」は第1連の「1/8の外側は曲線にならない」と呼応していて、構成上も巧い作品だと思いました。
○詩誌『潮流詩派』200号 | ||||
2005.1.1 | ||||
東京都中野区 | ||||
潮流出版社 発行 | ||||
525円 | ||||
ふたつの海の記憶 一九四八年春 中田紀子
デッキと人形
宮島へ行く船のデッキは 人びとの顔や荷物でひしめいていた
ペンキが剥がれて かさかさした緑につかまり 揺れる床に足を
ふんばって 背のびして下をのぞくと みたこともない蒼い水が
泡をまき散らしていた あるはずの地面がない 恐怖が 三歳の
胸に サイズいっぱいに侵入してきた 「沈む 沈む」と叫んで
も 船はかまわず進んだ わたしの泣き声が 大きかったのか
船内にいた人が 何かを母に手渡した 受けとったものは トウ
モロコシのような毛が もじゃもじゃ生えている頭 とがった鼻
ひょろ長い足 水兵の服を着た ノッポの人形だった 抱いても
ごつごつして つっぱっていた 母につき返すと 驚いたことに
母の眼が真赤だった 数十年経ってその理由を聞く機会があった
遠い日のデッキのことを母はよく覚えていて こう言ったのだ
「アメリカ兵だけ椅子に腰かけて 日本人はデッキに立たされた
日本の船なのに 戦争に負けるということはこういうことなのだ
とわかった あんなひどい爆弾を落として チョコレートや人形
をもらってもね− 屈辱的だった」
特集「海」の中の1編です。「ふたつの海の記憶 一九四八年春」というタイトルのもとに「己斐の朝のワカメ」「デッキと人形」の2編があり、ここでは後者を紹介してみました。「あるはずの地面がない」という「三歳の胸」の「恐怖」は私にも覚えがあります。「日本の船なのに 戦争に負けるということはこういうことなのだ」という経験はありませんが、近い話は聞いています。歴史の証言という意味でも貴重な作品と云えましょう。
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