きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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「唐辛子」
2004.11.13
自宅裏畑にて
 

2005.1.20(木)

 ビールの実験も今日が最終日。次々と紙コップを替えながら何十回も匂いを嗅いで、味をみて…。仕事ですからもちろん一滴も呑んでいませんけど、身体中からビールが匂ったのではないかと思います。そんな単調な動作を繰り返していて、そのうち頭にきましたね。なんで一口も呑めないんだぁ! だって、仕事だもん……。
 20本の大瓶が結局7本残ってしまいました。さて、残りをどうしょう。追加実験の予定もないし…。関係者に1本ずつ配って、空瓶にしてもらうか、責任とって私が全部カラにしてしまうか。生協には空瓶で返す約束をしていますからね。ま、あと1週間ぐらい放っておいても大丈夫でしょう。それまでに考えます、、、って、考えても結論は同じ気がするな(^^;




たかとう匡子氏著『神戸ノート』
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2005.1.17
大阪市北区
編集工房ノア刊
2000円+税
 

    被災地という日常(2)

    ふと、街を行き来する人の服装が気になる。いつものショッピング風景や春の陽気に誘
   われて、ぶらぶら街に出てきたというのではない。三分咲き、五分咲きと伝えられる桜見
   物の帰りにしても、ちょっとちがう。むこうから元気よく歩いてくる親子連れ、年配の夫
   婦らしい人、今、追い越したばかりの談笑しながら歩いていた高齢者のグループ、みんな
   示し合わせたようにパンツ姿で、リュックを背負い、スニーカーを履いている。思わず、
   これは、あの、と言葉に詰まった。これはあの、地震直後から一年以上もつづいた震災ル
   ックではないのか。
    あの日、市街地のバスも電車も交通機関はすべてあの時刻を境にして寸断された。翌日
   からは代替バスに乗るために一時間以上も寒さのなかを並び、それなら、と歩き出した人、
   食べ物を求めて、衣服を、住み処
(か)を求めて、歩きまわる人が、スニーカーを履き、リュッ
   クを背負い、パンツ姿で、壊れた街、がれきの街にあふれた。倒れたり、傾いたり、ねじ
   曲げられてしまったビルや家屋を、ユンボやショベルカーが朝早くから夜遅くまで壊し、
   粉塵が重たく街にふりかかる。そんなときも、マスクをかけて、誰からともなく、震災ル
   ックと呼ばれはじめた服装で歩く人々の姿がそこここにあった。
    ふいに、後ろで大きな声。
   「歩いてきましたで、海はほんまに広かった、空中散歩してるみたいで、気分は最高です
   わ。一ペんも休まんと歩き通しました」
    声に思わずふりかえった。ああ、と気がついた。
    「明石海峡ブリッジウォーク」に参加した人たちなんだ。明石海峡大橋の完成を記念し
   ての催しがあると聞いていた。二、三日前、友人からその抽せんに外れて悔しいと、さん
   ざん愚痴の聞き役にまわったばかりだった。
    神戸から橋を歩いて淡路島まで往復してきた人たちの服装から、三年前のあの日に引き
   戻される自分に苦笑している。

 この1月17日は阪神・淡路大震災から10年目でした。それに合せて発行されたエッセイ集です。主に神戸市消防局広報誌『雪』に毎月連載で執筆した作品を収めてあります。
 紹介したエッセイは「三年前のあの日」とありますから1998年に書かれたものと思います。関東に住んでいると「震災ルック」などがあったとは知りませんでしたが、地震が人々に与えた影響の大きさを垣間見る思いです。とても「苦笑」いで済むようなことではなかっただろうと想像しています。あれから10年、中越地震もあった、スマトラ沖地震による津波もあった、と人間と地球を考えさせられた1冊です。



詞花集『岩魚』2集
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2005.1.1
埼玉県飯能市
吉村明代氏代表・現代詩の会 岩魚 発行
非売品
 

    そいつ    巴 希多

   それは
   言葉の直球
   わたしの
   粗末な感受性に突き刺さり
   胸のあたりに棲みついて
   増殖した
   得体の知れない
   生きもの

   ケヤキの年輪に
   勝手に食い込み
   養分を奪って 葉を繁らせる
   寄生木のように 育った
   わだかまりの
   かたまり
   もう
   手におえやしない

    何て言われたのか? ですって
    言いたくないわ

   笑って
   ごまかして
   共存するっきゃないの
   ひと日
   ひと日
   括っていくっきゃ

 「言いたくない」「言葉の直球」をまともに「胸のあたり」に受けることって、ありますね。普段は「笑って/ごまかして/共存する」ようにしているのですが、たまに「わだかま」って「もう/手におえやしない」状態になることがあります。そんな誰にでも訪れることを巧くまとめた作品だと思います。最終連の「ひと日」の繰り返し、「括っていくっきゃ」という話し言葉が奏功している佳品だと思いました。



詩誌『地平線』37号
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2004.11.20
東京都足立区
銀嶺舎・丸山勝久氏 発行
600円
 

    銭湯    杜戸 泉

   家に風呂が無いものですから
   銭湯をよく利用するのですが
   湯船に浸かりながら
   ごくらく ごくらく
   と呟いて
   ささやかなしあわせを
   感じていた時に
   誰かにうしろから
   押されたものか
   前につんのめって
   運悪く栓が緩かったのか
   はずれてしまい
   排水口に
   吸込まれてしまいました
   水の力は
   思ったよりも強くて
   あっという間に配水管の中へ
   管の中は思ったよりも広くて
   それでも
   百六十センチ
   八十キロの身には
   少しばかり窮屈で
   流されてゆくうちに
   表皮が剥がれ
   脂肪はばらけて
   手がもげ
   足がとれて
   だんだん人間の形を
   失ってゆくのですが
   なぜか意識はあって
   下水のにおいやら
   窮屈さやらは
   感じていたのです
   身寄りがないものですから
   このまま流されてしまっても
   蒸発ということで処理されて
   脱衣籠のTシャツもGパンも
   ゴミとして
   棄てられてしまうのだろうな
   などということを
   ぼんやり考えながら
   流されてゆく
   私でした。

 いろいろな比喩として考えられる面白い作品だと思います。私は「ごくらく ごくらく/と呟いて/ささやかなしあわせを/感じてい」る私たちへの警鐘と受け止めました。「だんだん人間の形を/失ってゆくのですが」「ぼんやり考えながら/流されて」いるのが私たちの実態のように思うのです。だらだらと書き連ねている構成も見事に奏功している作品だと思いました。




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