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「唐辛子」
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2004.11.13 |
自宅裏畑にて |
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2005.1.22(土)
昨夜は「獺祭・3割4分」を呑んで早めに寝てしまったせいか、今朝は5時に目覚めました。それから、いただいた本を読んで、うとうとと朝寝をして、昼寝も夕寝もやって、体力回復です。明日は埼玉・浦和でささきひろしさんの出版記念会がありますから、夜中まで呑むことになるでしょう。それに向けての体力増強もできたかな(^^; お酒もいっぱい呑んで、写真もいっぱい撮って楽しませてもらおうと思っています。ささきさん、よろしくね!
○機関誌『「詩人の輪」通信』3号 |
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2005.1.18 |
東京都豊島区 |
九条の会・詩人の輪
事務局 発行 |
非売品 |
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巾広い人々の結集を求めて 三上敏夫(北海道)
大江健三郎さん、澤地久枝さんら九人の呼びかけで「九条の会」が生まれました。その
呼びかけに呼応して、この地域でも「厚別東地区九条の会」(札幌・厚別東地区)を、立ち上げ
ることになりました。その呼びかけ人には九十歳をこえる元郵政局勤務の方や医療事務に
携わっている方など、その顔ぶれは多士彩々でありました。
どんな集いでスタートさせるか、いろんな意見が出る中で広く結集できるように、堅苦
しくない集いにしょうということになり、その白羽の矢が私に当たりました。それは、私
が短大教師時代に「児童文化論」の講義の中で「紙芝居」を取り上げていたので、「それで
やれ」ということになったのです。
幸いにベトナム戦争を主題にした、べトナム紙芝居作家の生み出した「象牙の櫛」があ
り、そこからベトナム戦争を語り、イラク戦争の現状を語り、それにつながる一人一人の
戦争体験を語って行こうということになりました。その中では「終戦になり、おとなが敗
戦で悲しんでいる中、自分はこれで助かったとうれしかった」とか、「最近ベトナムに行っ
て枯葉剤の恐ろしさを実感した」という、学生の話など多彩に語られ、熱っぽい集いにな
りました。
また、日本で生まれた「紙芝居」という、その大衆性と文化と質の高さで世界に広がっ
ている紙芝居文化を、今後、日本国内でももっともっと広げて行こうという話も生まれた
りしました。
戦争の残虐さをリアルに学習することは当然ですが、未来を背負って立つ子どもの心を
育てるという観点もしっかりおさえながら、紙芝居ばかりでなく、絵本や音楽等々にも目
を向けながら、巾広く運動を広げていきたい、と思っています。
「九条の会・詩人の輪」に私も参加させてもらっていますが、特に具体的な活動をしているわけではなく心苦しい思いをしています。今号では紹介したように北海道での活動が載せられていて、全国ではいろいろなことが始まっているのだなと思いました。そういえば、先日、小田原駅前でも署名活動をやっていました。それには署名させてもらいましたけどね。
「紙芝居」の「大衆性と文化と質の高さ」には私も最近注目していまして、良いことだと思います。何の力もありませんが、しっかり応援していますよ。そうそう、昨年末での賛同者は580名になったと報告されていました。すごい人数ですが、問題の大きさから考えるともっともっと増やす必要がありますね。
○隔月刊詩誌『RIVIERE』78号 |
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2005.1.15 |
大阪府堺市 |
横田英子氏 発行 |
500円 |
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西暦2005年 石村勇二
めぐりめぐって還暦の酉年を迎える
石村勇二の石は石川啄木の石
石村勇二の村は北村透谷の村
石村勇二の二は小林多喜二の二
大学一回生の十九歳になったばかりの春
ガリ版刷りの詩集を出した
なぜかわたしは早く死ぬと思っていた
若くして死んだ詩人や作家の名前の一部を借りて
本名の勇をあいだにはさんで石村勇二
《ペンネームは詩の一行である》
そのように宣言して詩を書き続けたのは
おそらくわたしが最初であり
おそらくわたしが最後だろう
石村勇二は本名の近島勇とは別人格である
別人格だが石村勇二は近島勇なしでは生きていけない
石村勇二と近島勇
二年も三年も遅れてついていったり
時には五年も十年も先回りしたり
くんずほぐれつ ぶつかり離れ
石村勇二は石村勇二 近島勇は近島勇
めぐりめぐって還暦の酉年を迎える
近島勇も歳をとったが石村勇二も歳をとった
鏡に映る顔はもはや十九歳には見えない
成長というか堕落というか
社会も人間も同じところにとどまっていることはできない
それでいてやはり近島勇は近島勇
石村勇二は石村勇二
還暦を迎えた西暦2005年
石村勇二と近島勇は統合され
そしてまた離れていく
「《ペンネームは詩の一行である》」とは、佳い言葉ですね。私もペンネームですから、よく判ります。「別人格だが石村勇二は近島勇なしでは生きていけない」「近島勇も歳をとったが石村勇二も歳をとった」という言葉に私も実感を伴います。最終連も本名とペンネームの関係をうまく表現していると思います。筆名について、今まで書かれたことのない詩ではないでしょうか。還暦になって、これからどんな作品を見せてもらえるか、楽しみな詩人です。
○詩誌『ぼん』41号 |
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2005.1.30 |
東京都葛飾区 |
池澤秀和氏 発行 |
非売品 |
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繰り位牌 齋藤
主食欠配の空き腹でも仏壇を買い
外地帰りの位牌を納めた母も死んだ
盆茣蓙を敷き 盆提灯にも灯を点し
門を開け 今年も病妻と迎え火を炊いた
朝晩の役目をもらった子供の頃
仏飯とお茶を供えて灯明をともし
鉦(ちん)を叩いて掌を合わせ 飯もそこそこ
学校へ急いだソウルの冬の風の冷たさ
戒名は位牌の前に順次繰られ祀られて
祥月命日には 故人好物が供えられた
背後に錬座する千手観音は私の守り仏
甲子(きのえね)生れに頂いた三千院の御土産だ
アジアの鉄路に生涯を捧げきって
千手観音とともに帰ってきた父の遺骨
線香が染み 漆が欠けた繰り位牌には
有り合わせの紙に書かれた父の戒名
共に酒も酌めなかった縁薄い子が
酒を供え鉦(ちん)をたたいて経をあげた
人生にも残り物には福があるのか
繰り位牌には白木の札があと二枚
達観している、と言ったらいいのでしょうか、「繰り位牌には白木の札があと二枚」とはなかなか書けないことだと思います。「人生にも残り物には福があるのか」というフレーズも自嘲気味ですが胸に伝わってきます。一族の流転を語る「繰り位牌」は、今、静かに鎮座して作者に見守られているのだなと思うと、人生の何たるかを考えてしまった作品です。
○山波言太郎氏詩集『天啓の詩 水晶宮』 |
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2005.2.11 |
神奈川県鎌倉市 |
でくのぼう出版刊 |
1000円 |
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水晶宮
あざやかに水底に沈む水晶の宮
魚らが春をひきつれて
水面よりかえるとき
灯台のように光る
樹が水辺にしなだれて
うっそうと天を覆い
光はそこに落ちない
唯 光った輝きが水晶の宮より発する
雨だれの中で輝き
夜は神秘な森のけものの遠咆えの中で
しづかに息をのむ
誰の目にも見えていない水の中で
水藻とそこを通る
魚らの幻想の縞の中に
建てられている (以下略)
この詩集は60年ほど前の1947年に書いたふたつの長詩「水晶宮」と「白明宮」の再録だそうです。作品の成立過程にいて後記では次のように書かれていました。
この二篇の長詩は昭和二十二年春に書いた詩です。死ぬと思って行った
学徒出陣での海軍からの帰還。もう一度俺にも人生が始まるんだと、そん
な感慨が一杯だった春です。昼、部屋にいて、フト目の前が暗くなり、黒
い画面に約三十センチ角大の、それこそ黄金色の文字が浮かびました。水、
そして次に晶、次は宮。ビックリする気持と、それを書きとめておかねば
という気持で、そばにあった紙に筆記しました。すると、次々々と、黄金
文字が浮かぶので、すべてを写し終わったら、読んでみたら「水晶宮」と
いう一篇の詩でした。
もう1編の「白明宮」も同じように成立したと書かれていました。それで詩集タイトルに「天啓の詩」が添えられていたわけなんですね。詩人は預言者・神の使徒とは昔から謂われていることですが、まさに現代の神の使徒と云えましょう。とても長い作品で全編の引用は止めましたが、冒頭の部分だけでもその雰囲気は味わってもらえると思います。
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