きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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「唐辛子」
2004.11.13
自宅裏畑にて
 

2005.1.31(月)

 西さがみ文芸愛好会の文芸展も最終日。15時で仕事をサボって、小田原のアオキ画廊まで片付けに行きました。密かに期待した通り、片付けが終ったら呑み会になりました(^^; 当然、つき合いました。その中で入場者の発表があったのですが、6日間の会期中に350名ほどが来てくれたそうです。へぇー、意外でしたね。毎日60人ほどが来てくれたんだ! 会員が100名ちょっとですから、全員が3回来れば350人になる、、、。ま、そんなこともないだろうから、一般のお客さんも200人ぐらい来てくれたという勘定になるかな、と思います。

  050131.JPG    会場の雰囲気を写しておきました。全体ではこの写真の倍になります。短歌・俳句がやはり多くて、詩は7名のみの出品です。その中で知合いは2人。あとの4人の方はまったく知りません。私がいかに地元と接触していなかったかという表れですね、反省。

 会場で、私の住んでいる南足柄市にお住いの東さんという男性と意気投合。終ってから二人で小田原駅前の「魚亭」(だったかな?)で呑み足りない分を補充しました(^^; 新潟・小千谷の濁り酒「冬将軍」が旨かったです。
 結局、会場でビール・ワイン、駅前で濁り酒・「一の蔵」と呑んで、かなりメロメロになりました。月曜日からこれでいいのか、と、こちらも反省。でも、地元で呑むのは帰りの心配が無いから安心なんです。




文芸誌『扣之帳』6号
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2005.1.5
神奈川県南足柄市
扣之会・東 好一氏 発行
400円
 

 会場でたまたま買った本の発行者が、前出の東好一さんでした。同じ南足柄市内でこんな本が出版されていたとはまったく知らず、ここでも反省。
 東さんは「第六天」というエッセイを連載しているようで、今号では[3]になっていました。「第六天」とは仏教用語で、広辞苑によると、
   〔仏〕他化自在(タケジザイ)天に同じ。多くの眷属をひきいて仏道の妨げをなすところから、第六天の魔王といわれる。平家一○「―の魔王といふ外道は」
 となっています。この魔王に関連する論考ですが、[1][2]を読んでいませんし、私の頭ではちょっと付いていけません。代り、と云っては何ですが、東さんによる編集後記が面白かったので、前半を紹介してみます。

   ◇今号から編集後記欄をしばらくの間
   設けることにした。
    初号からの読者であり、執筆を期待し
   ている鈴木、古屋、植田の各氏から、会
   う度に欄を設けることをすすめられてい
   たが拒否してきた。雑誌が崩れていくの
   は編集後記欄からだと確信しているから
   である。
   ◇先日、岸老師からも欄を設けるべし、
   という話があった。二度のおすすめであ
   る。当方も二度目の自論の開陳をしたと
   ころ、「崩れるものはどこからでも崩れ
   る」と言われた。二分月半考えて、欄を
   開くことにした。

 私も20年ほど同人雑誌の「編集後記欄」を書いた経験がありますけど、「雑誌が崩れていくのは編集後記欄からだ」ということにはまったく思い至りませんでとした。しかし、そう云われてみると、その兆候があったのかもしれません。有名な文芸商業雑誌を毎月購入していますが、確かに内輪の下らないことを書いています。若手編集者の遊びと割り切って読んできましたけど、「雑誌が崩れていく」という観点でも見る必要があるかもしれませんね。

 それに対応した「崩れるものはどこからでも崩れる」というのは名言です。崩れるものはいずれ崩れる、その兆しは肩の力を抜き過ぎた編集後記、ということなのかもしれません。このお説の詳細はいずれ聴いてみたいものです。もちろんお酒をのみながら(^^;



菅野正人氏随筆集『鳴き耳』
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2001.4.1
東京都港区
新風舎刊
1500円+税
 

 こちらも西さがみ文芸愛好会・文芸展で著者よりいただいたきました。展示されていた本を読んでいて、突然、声を掛けられました。「熱心に読んでもらっているので、あげますよ」。著者がすぐ近くにいたとは知らず、驚きました。50篇ほどの作品のうち、最初の1篇を読み終わったところでした。読みやすく、最後の締めもきちんとしていましたから好感を持ったところだったのです。もちろん喜んで頂戴いたしました。

 著者は神奈川県小田原市在住で、小学校の先生だったようです。小田原地方を舞台にした作品が多く、土地っ子として馴染んでいる場所が登場しますから、一気に拝読しました。全体に、著者が持っている前向きな姿勢、素直な見方に惹かれましたけど、それ以上に言葉に魅かれましたね。

    頑丈にできた狭い花壇には、入居する希望者がまだ増えそうなので抽選でもしなければ
   ならなくなった。                            「花壇

 もちろん、「入居する希望者」は花たちのことです。

    二十八日に箱根山にも傘を突き破るような雨が降り、三時過ぎに路線バスが運行を見合
   わせるというので、仕事を途中で切り上げ自宅待機になるほどだった。「夏の終わりに

    小さな駅の入口の階段で身なりは高枕生だが茶髪の男女数人が、円陣を組んでタバコを
   吹かしている。自主的に校外学習の進め方でも話し合っているのだろう。いっしょに華道
   展にでも連れていきたいところだが、 <花よりタバコ> と、いうのでは声もかけられない。
                                     「花ごころ

 などなど、詩のフレーズに遣いたいような言葉がたくさん出てきます。詩や随筆というジャンルを越えたところに詩≠ヘ存在するのだなと改めて感じた次第です。
 「フウセンカズラ」、表題の「鳴き耳」、「畳の棺
(かん)」なども魅了される作品です。機会があればぜひ読んでみてください。



総合文芸誌『中央文學』466号
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2005.1.25
東京都品川区
日本中央文学会・鳥居 章氏 発行
600円
 

    残り火    佐々木義勝

   生簀の囲い鋼
(ネット)のなかを
   魚たちが
   危険な 遺伝子組み換えの甘い餌に 群がって
   競って 回遊する

   一匹だけが
   群れに 逆らって
   反対の方向に むかって
   青い海への出口を探して
   懸命になって 泳いでいる

     泳ぎは あまり 得意じゃないけれど

   波涛で縺れた鋼
(ネット)のなかで
   傷つきながら
   絡まれる鋼
(ネット)を 逃れて
   満潮のなかで
   藻掻いている

     必死なので おまえもみんなも気づかない

    いま 海面をおおう海霧の闇のなかで操られる
   巨大な水揚げの鋼
(ネット)
    腐臭のする霧の奥から ゆっくり 降りてくる

    やがて
   おまえたちは 頭と尾を切り落とされ
    臓腑
(はらわた)を剥がされ 骨を剥がされ
   肉ばかりとなって
   汚れた富の餌食となって 買い取られてゆく

 「一匹だけが/群れに 逆らって」いるのは詩人≠ネのかもしれませんね。世の中を泳ぐ「泳ぎは あまり 得意じゃないけれど」、「青い海への出口を探して/懸命になって 泳いでいる」存在だろうと思います。「やがて」「汚れた富の餌食となって 買い取られてゆく」のは一般の「魚たち」だけではなく、「一匹だけ」の魚も同様と読み取れますが、その行為が大事だと謂っているように思います。現代へと警鐘と呼べる作品と云えましょう。



詩誌hotel第2章12号
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2005.1.10
千葉市稲毛区
根本明氏方・hotelの会 発行
500円
 

    虚数    澤口信治

   あの角を曲がった先には何もなかったのだ。

   無いというのは、空き地になっているとか、道路が途切れているとか、
   滑落が激しい跡にとほうもない断崖が生じたというようでもなく、
   まるでなにもないというなさなのだ。

   空気が残っていて何もみえないとか、巨大な石が行く手を塞いでいるとか、
   見え方の問題ではなく、風景の一部が完全に欠けているというなさなのだ。
   人体にたとえるならば、腕が付け根からとばされているとか、両耳が殺がれて
   無いというのでもなく、頭蓋から肩、背への大半が崖のように欠けているとい
   うふうなのだ。

   それならば、欠けたむこうに青い空などが、茫漠とひろがっていることになる
   のだが、ひろがりというものも感じられないのだ。実感できる空間がないのだ。
   むしろ、仄明るいなつかしさから徐々に闇へとのみこまれてゆくような悪意の
   仕掛けを感じるのだ。

   ああ、これが虚というものかと、恐怖のあまりあとずさって、この地点まで、
   ほうほうのていで戻って来たのだから。
   疑うのなら、きみがあの角まで行って確かめればよいのだ。

   今まで旗などはためかなかった空に、四六時中はためき、旗の褪色が薄汚れた
   空にあわせるように曖昧となりつつも、空の一角が絶えずみえないというよう
   な抽象的な話ではない。

   わたしたちは、いつだって地球のへりを歩いているのだが・・・

   しかし、
   あの角を曲がったところに
   ひとびとの声の残響すら聞こえてこないのはいったいなんなのだ。

 面白い視線の作品だと思います。タイトルが佳いですね。このタイトルにはやられた!≠ニいう印象です。
 「虚数」を謂うのに「まるでなにもないというなさなのだ」、「頭蓋から肩、背への大半が崖のように欠けているとい/うふうなのだ」、「むしろ、仄明るいなつかしさから徐々に闇へとのみこまれてゆくような悪意の/仕掛けを感じるのだ」と表現していますが、それらが見事に謂っているし、それらの言葉自体に大きな喩を感じます。最終連の「ひとびとの声の残響すら聞こえてこない」という言葉も奥深いと思います。佳い作品に出会えました。




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