きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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この花、なに?
2005.1.11
自宅裏畑にて
 

2005.2.4(金)

 金曜呑み会は、小田急線東海大学前駅そばの店まで足を延ばしました。この地方では私が一番好きな「一膳一酒」という居酒屋があって、同じ経営者で3軒の店があります。その中の最も新しい店は昨年2月開店で、それが東海大学前店です。今回で3回目かな。好きな「獺祭」は置いてないんですが、そこそこの日本酒があります。今夜は静岡の「磯自慢」と宮城の「浦霞」にしました。「磯自慢」は掛川に出張したときに覚えたお酒ですが、記憶の味よりも良かったですね。体調が良かったのかもしれません。ん、お酒はやっぱり、健康のバロメータだ(^^;



季刊詩誌『詩と創造』50号
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2005.1.25
東京都東村山市
書肆青樹社・丸地 守氏 発行
750円
 

    無断横断    金基澤(キム・ギテク)
             韓成禮 訳

   突然前の車が急停車した。突っこむところだった。
   後ろの座席で寝ていた子供が、座席の下に転げ落ちた。
   習慣化された敵愾心が、悪口となって飛び出した。

   前の車のすぐ前を一人の老婆が渡っていた。
   横断歩道でない道路の真ん中だった。
   止った車も歩行者も驚いてボンヤリと眺めていた。

   狭くて曲がりくねった、閑寂な田舎道だった。
   歩いてみたら突然、道路と車が生じたという歩みだった。
   どんなに急いでも到底早くはならない歩みだった。
   死が幾度も加速して避けていった歩みだった。
   それよりももっとひどい死も幾度も避けていった歩みだった。
   心の中ではとうの昔に死んだこともある歩みだった。今や死さえもどうすることもできない歩みだった。

 「推薦優秀作品」というコーナーに載せられていました。金基澤氏は1957年生まれとありますから、まだ40代の若い韓国の詩人です。最終連は段組の都合で3行になっているようで、原文ではおそらく1行だったのだろうと思い、続けてあります。

 「老婆」の姿が良く描けていると思います。「〜歩みだった」という繰返しが効果的で、面白い感覚だなと思いますね。「死が幾度も加速して避けていった」「それよりももっとひどい死も幾度も避けていった」「心の中ではとうの昔に死んだこともある」「今や死さえもどうすることもできない」と畳み掛ける言葉も魅力的です。最初の連の「習慣化された敵愾心が、悪口となって」というフレーズは、表面的には作者の人間性も見えそうなんですが、それは違うということが最終連で判ります。己を見る眼、他人を見る眼が確かな作品だと思いました。



隔月刊詩誌『叢生』136号
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2005.2.1
大阪府豊中市
叢生詩社・島田陽子氏 発行
400円
 

    それが朝や    麦 朝夫

   ほんまに夜は グチグチしてたで

   宿直の晩 兵隊やった用務員さんが
   占領すると サックをみんなに配った なんて話した
   宿直室で 誰かが置いていったブルーフィルムを
   ひとりカタカタ見たこともあった
   お巡りが外へ巡回に来て
   中国人みたいに身をすくめた
   明るく生活つづり方教えてたニホンの 夜の深みに

   そうして お母ちゃんが頼んだ弁当を近所の女の生徒が
   センセ と嫌そうな顔で職員室の白い向こうから
   突き出す それが朝や

   ほんまに夜がいくつもクネクネ逃げて この頃は
   また寝られへんかった と訴える長生きのお母ちゃんの
   ポータブルトイレのオシッコを乾いた向こうへ
   流す それが朝や

 「グチグチしてた」夜を「宿直の晩」が象徴しているんですね。もう40年も前の中学生の頃、よく宿直室に泊りこんで、先生といろいろ話し込んだものです。そういえば、湿った布団が電気炬燵に暖められて、宿直室特有の匂いがありました。あれも「グチグチ」に含まれるのかもしれません。
 それに対する「センセ と嫌そうな顔」があったり、「ポータブルトイレのオシッコを乾いた向こうへ/流す」朝も、やっぱり「グチグチ」の延長のように思います。「それが朝や」と言われると、ホント?と思ったり、そんなもんかもしれないなと納得したり…。うまく説明できませんけど、妙に気に掛る作品なんです。



村上泰三氏遺稿詩集『大山椒魚』
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2005.1.23
さいたま市桜区
竜骨の会刊
2000円
 

    かたちについて

   昨日は道端で じっと踞っていた蝦蟇が
   今朝は 腹を上に向け
   前肢を祈るように合わせて ひっくり返っていた

   両手を合わせると 肩の力が抜ける
   祈りのかたちをとると
   こころは 内面へ 内面へと降りてゆく
   未熟な思考を 他者に委ねることで 救われるのだ

   無意味だと思われていたかたちが 失われてはじめて
   実は かたちが本質を
   深いところで支えていたことが分かる
   まず かたちから入ることだ
   本質は 深い闇の奥に閉ざされているのだから

   中味がないのに かたちを飾っても仕方がないのか
   中味がない上に かたちまで失えば
   そこには 何も残らない
   飯の食い方や 酒の飲み方
   眠りにつくときの 右横向きのかたちを
   守り続けている
   崩れかけているおのれを支えるために
   せめて 服装を整えて 人前に出ていく

   心身ともに疲れると それほど髪は伸びていないのに
   ふいに 床屋に行きたくなる
   あの椅子のかたちに 身を委ねたくなる
   歯科医の椅子に似ているが 緊張感はない
   うつちうつらとしているうちに
   それなりにさっぱりしたかたちが 鏡に映ると
   身もこころも 軽くなっているのだ

 一度お会いしたかった詩人が村上泰三さんでした。残念なことに昨年6月に63歳の若さでお亡くなりになって、私の望みが叶うことは無くなりました。作品を通じてしかお人柄は判らないのですが、親しくお話を伺いたいと何度も思ったものです。皆さまからも慕われていたことは、亡くなって7ヵ月後に遺稿詩集が出たことでも感じ取れます。

 この遺稿詩集に収められている作品の一部は、すでに拙HPでも紹介しています。「春」「蒼天」「綱引き」「レールについて」「廻り舞台」は詩誌『竜骨』の、詩集タイトルの「大山椒魚」は詩誌『セコイア』の紹介で転載させていただきました。トップページの索引―詩誌、で検索してみてください。村上泰三という詩人の全体像にかなり迫ることが出来ると思います。2002年9月刊行の第2詩集『フラスコの中で』は索引―寄贈本―ま行、で見ることが出来ます。

 紹介した作品は拙HPでは初めてですが、今まで紹介した中ではちょっと趣が違っていると思います。村上詩の本質の部分かもしれません。第3連の「実は かたちが本質を/深いところで支えていたことが分かる」にそれを感じます。この基本があったからこそ視点の安定があったのだろう思います。村上詩研究には欠かせない作品と云えましょう。

 詩集帯に村上さんのお写真が載っていました。初めて拝顔しました。意志の強さと優しさを感じます。ご冥福をお祈りいたします。




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