きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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この花、なに?
踊子草? 千鳥草? はくさんちどり?
2005.1.11
自宅裏畑にて
 

2005.2.12(土)

 久しぶりに神楽坂で開かれた日本詩人クラブの例会に出席してきました。「日本詩人クラブ賞受賞者の詩的世界」というコーナーで山田隆昭さんが1992年・第25回受賞の土橋治重さんを語ることになり、山田さんの紹介を私がやれ、ということになって出席したものです。96名も集まって盛会でした。

   写真が山田隆昭さん。1996年、第47回H氏賞の受賞者です。土橋さんについて30分ほどの講演でしたが、うまくまとまっていたと思います。『風』で土橋さんの薫陶を受けていますので、接した者でなければ判らない話があって、貴重な証言だと思います。
 それにしても山田さん、話が上手くなったなと思います。お坊さんでもありますから説教は日常なんでしょうけど、以前聴いた講演より格段に上手くなったと思います。同年配ですからね、これから講演の機会も増えるでしょうから、ますます磨きがかかると思います。楽しみです。
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 二次会も終って、今日は珍しく中原道夫さんに誘われて、香野広一さんと3人、「鳥茶屋」で呑みました。詩人クラブの将来を話し合ったりして有意義な三次会でしたね。「土佐鶴」も旨かったです。久しぶりの例会、神楽坂の夜はいい夜でした。



月刊詩誌『柵』218号
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2005.1.30
大阪府豊能郡能勢町
詩画工房・志賀英夫氏 発行
600円
 

    後から行く    山崎 森

   最愛の妻(夫)に急逝された配偶者が
   涙にかきくれ
   後から行くから天国で待って下さいと
   ひと目も憚らずに泣きくずれる
   ぼくの知人にも
   このタイプがいて葬儀の日には
   夫婦愛の探さ。気高さに
   参列者の中には貰い泣きする者もいた

   敗戦の日も近い頃
   特攻隊員を送り出す毎に「貴様らのすぐあとから行くから」を口癖
   にし、ついに出撃せず、「あとから少佐」
と仇名をつけられた指揮
   官がいた
   「神風特別攻撃隊」と神憑った賞讃、鼓舞で有為の士を消耗品扱い
   にした外道の玉砕戦法に対し、死者は只、沈黙するのみ

   後から行くと云う人に
   お先に行ったらとは敢えて誰も云わない
   せっかく悲愴な役どころを演じているとき、水をさすようなことは
   控えるべきか
    たとえ今来なくとも
    やがてかならずやって来る

   然り、頭では分かっている     

   だが、死ぬのと殺されるのとは在ることの意味が異なる

    
「指揮官たちの特攻」新潮文庫・城山三郎著
    
「ハムレット」5幕2場、新潮選書・安西徹雄訳
    
Dasein

 非常に判りやすい詩なのですが、注釈の「
Dasein」が判りませんでした。辞書で調べてみると二つの意味があるようです。
<1>現存在(げんそんざい) (ドイツDaseinの訳語)ハイデッガーの用語。自己了解や存在了解をもった存在としての人間をいう。
<2>
定有(ていう) (ドイツDaseinの訳語)抽象的な存在に対し、「そこにある」ものとして具体的に相対的に規定された存在。
 頭が痛くなりそうです。「だが、死ぬのと殺されるのとは在ることの意味が異なる」と言ってもらった方がよっぽども判りやすいですね。哲学で言うとこんなに難しくなるけど、詩語ではこんなに簡単なんだという見本のように思います。
 今は「後から行くと云う人」が多くなっている気がします。某首相なんか最たるものでしょうね。また「有為の士を消耗品扱い」される時代が来ようとしています。「死ぬのと殺されるのとは」意味が違うと思うのですが…。そんなことを考えさせられた作品です。



坂井のぶこ氏詩集『有明戦記(八面大魔王考)
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2005.2.15  
東京都足立区  
漉林書房刊  
1500円+税  
   

   1

   それは私達の一族の印しです
   闇夜の中で有明がぼおぉぉっと光ってみえるのは
   生まれた土地を追われても
   そのあかりを心に持っているかぎり
   私達は滅びることはありません
   つかまの神のやしろの前に
   さらされたあなたの首を
   わたしはこっそり見にいった
   ああ やそうよ たあらあよ じらうよ みちひよ はんみょうよ
   そして あなたよ

   田村麿は私達の耳たぼを削り
   体の中に我達の血を引くものを宿させて
   去って行きました

   水のない荒れ地に追われ
   物乞いをする毎日です
   それでも私にはわかるのです
   胎内に孕むこの子には
   有明の血がより濃く流れているのだと
   この子も又闇の中で光りを見るものになるでしょう

   許してください
   私は仇を報じは致しません
   怨みを持つことも致しません
   ただ忘れずに伝えて参ります
   私達の見た光りのことを

   闇夜に迷う時
   立ち現れて私達を照らしてくれる
   有明のことを

   それは代よを超えて伝わって行き
   いつか生きることに疲れた人が
   もういちど闇夜の中で
   有明を見ようとするでしょう

   その時あなたは蘇るのです
   私達は活きるのです

 詩集は1編の詩で、1から18まで章立てされています。その冒頭の部分を紹介してみました。長野・有明に伝わる「
八面大魔王」を素材とした作品で、古代から江戸末期へと時空を越え「代よを超えて伝わって行き」、現代へと繋がる「一族」の歴史を描いています。「一族」は特定の集団として読み取っても良いのですが、私は日本民族の大多数を見つめているように思いました。

 「私は仇を報じは致しません/怨みを持つことも致しません/ただ忘れずに伝えて参ります」というフレーズは、物忘れの激しい日本人への警鐘とも受け止められます。あるいは日本人の中にも意識の違う「一族」がいるという証なのかもしれません。古代から繋がる日本人の奥底にあるもの、それを目の当たりにして一気に読んでしまいました。おもしろいですよ。ご一読を薦めます。



平野 敏氏詩集『無限遊神』
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2005.2.20
埼玉県入間市
私家版
非売品
 

    夏神優遊

   人生の放課後となった
   解き放された空に広がる紫金
(しこん)の自由が
   待ちに待った迷宮あかしのために
   ゆるやかに発芽してきて
   千羽鶴の幾連
(いくつら)の願いも込められて
   眠っていた死を含んだ時間に向かって
   名残りの夏を燃やす

   正確な天体図に逆らわずに
   誇らしく生きてきたのだが
   物足らないので火焔の残り火吹いて
   最初の誤解を想い出しながら
   萎びてきた心臓をいまいちど鼓舞して
   あれやこれやかじってみた
   夢との不倫のときめきの交わりも
   名残りの夏に燃やしてみる

   艶
(あで)やかでもなかったのに閉場(はね)たあとのさびしさ
   劇は薄氷
(うすらい)の舞台の上で
   蝶が繭の中へ籠もるような仕事であった
   大事利をこなせば
   大空も大海も瑠璃色に輝いているものと
   これからの余白に寧
(やす)らかな老後を広げて
   披瀝して祭りの中へ「私」を見つけにいく
   名残りに夏の黄金夢を見るため

   ギヤチェンジが出来たら
   下稽古
(リハーサル)もない詩の発生の櫓を囲み
   夏のリズムに乗って
   祖霊と別嬪に混じりながら
   この世とあの世を行きつ戻りつ
   夏神の屁の出るような太鼓の音に
   「私」の名を埋めて
   詩の界隈を花火とともに打ち上がりながら
   顔など隠さず弥勒になって
   最後の闇夜には空に手形を捺
(お)して散る
   名残りの月の記憶にも残らない夏に

   果実を残したかと群青の螢の流れが
   在りし日の罪業のような苦しみを苛
(さいな)
   世の陥穽
(かんせい)の中から飛んできて光りを凝らしている夏神も
   功徳を導く縁日に救いに洩れた人を招いて
   この夏に格別暑い火を天に沖
(ちゅう)して
   発条
(ばね)に乗った「私」という首も
   絡繰
(からく)りもなく回して見せる
   名越
(なごし)の日の速い昔日を灯籠に流したりして
   名残り惜しい夏に久しく「私」に還る

 硬質、また高質な叙情詩人として拙HPでも何度か紹介させていただきましたが、本詩集もそんな私の密かな思いをまったく裏切ることはありませんでした。出だしからすごいフレーズだと思いました。人生の黄昏≠ネどの言葉はありますけど、「人生の放課後」は佳い言葉ですね。この一言だけでも詩史に残りそうな言葉だと云ったら過言でしょうか。過言ではないと思います。それほどの衝撃を受けました。どこかで真似てみたいものです。それと対比した夏の比喩も素晴らしいと云えましょう。「正確な天体図に逆らわずに/誇らしく生きてきたのだが」というフレーズにも魅かれています。

 ルビは原文から変えてあることをお断りしておきます。汎用性のあるHTML書式では、こんな書き方しか対応できません。申し訳ありません。



個人詩誌『伏流水通信』14号
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2005.2.10
横浜市磯子区
うめだけんさく氏 発行
非売品
 

    夏の金魚    長島三芳

   夏の宵
   十歳の子供の私は
   故里の為朝
(ためとも)さまの祭りで
   金魚をすくった
   アセチレンガス灯の
   ちりちりと燃える中
   すくった金魚は
   小さな私の手の玉のなかから
   すらりと薄い紙を破って逃げた
   十歳の一瞬の夢は
   遠く闇の彼方に去っても
   なかなか消えるものではない

   傘寿もいつかすぎて
   すっかり老いた私の中に
   今年も為朝さまの祭りがやってきた
   笛や太鼓の音に誘われて
   むかし十歳の私の手の中から
   薄い紙を破って逃げた金魚は
   また現われるだろうか
   それともあの金魚は淋しい星空の下で
   何千の白い卵を水藻に孵化させて
   死んでしまったのであろうか

   八月 為朝さまの祭り囃子
   私の眼前には
   昔し私の紙の玉から破って逃げた
   たくさんの赤い金魚が幻となって
   群れをなして泳いでいる
   その一匹一匹に声をかけながら
   老いた私が懸命に金魚をすくっている

           
※「為朝さま」
            
浦賀港、浜町
            
鎮西八郎為朝神社

 「老い」るということは、こういうことなのかと感じました。「十歳の子供の私」の「一瞬の夢」は「なかなか消えるものではない」。しかし「傘寿もいつかすぎ」た今は、「その一匹一匹に声をかけながら」「懸命に金魚をすくっている」。「一匹一匹に声をかけ」ることができるようになるなら、「老い」は怖いものではないと思えるのです。また「昔し私の紙の玉から破って逃げた/たくさんの赤い金魚」が「私の眼前」に来るのなら、それは「一瞬の夢」の実現ではないかとも思います。若輩者の浅慮ですが、そんなことを感じた作品です。



詩誌『布』20号
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2005.1.10
山口県宇部市
先田督裕氏・他 発行
100円
 

    一番だよ    松田克行

   どんな時だって
   黙って聞いているのが
   一番だよ。
   何かしゃべって居る時が
   人間一番馬鹿に見えるものだ
   どこでどう黙るか
   それが人間の値打ちを決めるのさ。
   ぼくの場合
   云い過ぎたことは
   いっぱいあったが
   云い足りないことは
   殆どなかった。
   ぼくがミサに参列するのは
   黙っている時間が多いからだ。
   ぼくにとって
   教会は
   精神の一部のような気がする。

 二度ほどお会いしたことのある松田克行さんが亡くなったことを知りました。今号は追悼特集になっていて、松田さんの遺稿5編と同人の追悼文が載っていました。昨年5月19日、69歳だったそうです。
 紹介した作品は遺稿詩篇の中の1編です。お会いして「云い過ぎたことは/いっぱいあった」とは思いませんでしたが、そんな謙虚さが自然に滲み出ているような詩人でした。「どこでどう黙るか/それが人間の値打ちを決めるのさ」と天国から叱られている気になります。ご冥福をお祈りいたします。




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