きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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この花、なに?
踊子草? 千鳥草?
はくさんちどり? てがたちどり?
2005.1.11
自宅裏畑にて
 

2005.2.17(木)

 午後から江東区に出張してきました。小田原から新幹線で東京に出てそれから地下鉄で行くのですが、いつも接続が悪くて、会議の始まる45分ぐらい前に着いてしまうか、逆に会議が始まってから10分後に到着するかになってしまいます。遅刻するわけにはいかないので、当然、前者を採りますから時間を潰すのが大変です。

  050217.JPG    そんなこともあって、今日は少し散歩をしてみました。冬ですから花らしい花なんてありませんけど、これは団地入口の空き地に咲いていたものです。冬枯れのなかでは目立ちましたね。例によって花の名前なんて知りませんけど(^^;

 会議が終了してから近くの呑み屋さんに誘われました。中国人と思われる女性が切り盛りしている店で、日本酒は「浦霞」しか無く、それを呑みましたけど、ヘンに悪酔いしてしまいました。2合か3合ぐらいだったと思います。帰りの新幹線ではヘロヘロになっていましたから、知らないうちに3合以上呑んでいたのかもしれませんね。最近、そんな感じで呑んだ量を覚えていないことがあります。醜態を見せたかな? 気をつけたいと思います。




文芸誌『らぴす』21号
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2005.1.30
岡山県岡山市
アルル書店・小野田 潮氏 発行
700円
 

    どんな詩集のなかにも、その人が詩人になる契機はどこ
   かに隠されている。中上についていえば、たとえば、灯火
   管制の解かれた戦後すぐの家族について書かれた詩があり、
   それは「そのとき家族の者たちはとうもろこしパンのこと
   を思っていたのだが/ぼくが思っていたのは/拝火教の神
   の名前を持った六十ワットの電球の下の光景を/心の印画
   紙にしっかりと焼き付けることだった/五十年後に思い出
   すために」で終っている。
    詩人はそのとき「五十年後に思い出すために」なんて、
   実は考えてもいなかったにちがいない。ポルトガルの詩人、
   フェルナンド・ペソアの「不穏の書、断章」のなかの言葉
   を借りるなら、「あらゆる詩はいつも翌日に書かれる」の
   である。「翌日」とは断えず更新されていく将来のある日
   のことである。そして「表現することをほんとうに感じた
   かどうかが重要なのではない。そう思って、感じたふりを
   することができれば十分なのだ。」「詩人はふりをするもの
   だ」「あらゆる真の感動は、知性にとっては嘘だ。感動は
   知性の手から逃れてしまうから。」
    ペソアの「不穏の書」の冒頭の「詩と詩人について」の
   断章から抜き出したのであるが、中上の詩集は、他のすぐ
   れた詩集同様、このようなものとして私の前に出現したの
   である。個人的体験を特権化したり、人生の意味を探ろう
   としたり、読者へ何らかのメッセージを送ろうなどという
   意図はない。すべては読み手の感受性にゆだねられている。
   詩人の「ふり」に共感できるかどうかにかかっている。詩
   集とはそんなものとしてある。いかなる詩も作者(読者)
   にとって、たえず更新される現在、またはたえず変化して
   いく内なる他者の発見としてある。

 小野田潮氏のエッセイ「酷暑の夏、フエルナンド・ペソアのことなど」の一節です。「中上」とは横浜詩人会でご一緒している中上哲夫さんのことで、中上哲夫詩集『エルヴィスが死んだ日の夜』の読後感として書かれていました。フェルナンド・ペソアという詩人は知りませんし『不穏の書、断章』も読んだことがないのですが、おもしろい視点だと思いました。「あらゆる詩はいつも翌日に書かれる」とは名言ですね。こういう形で紹介されればいつか読んでみようという気になります。勉強させていただきました。



詩誌『解纜』127号
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2005.2.8
鹿児島県日置郡伊集院町
西田義篤氏方・解纜社 発行
非売品
 

    少年時    石峰意佐雄

   泣き疲れて
   倒れていると
   電灯
(でんき) の光が 涙で 大きな
   かたまりになって
   ふるえている
   目を細めたりもどしたり
   光はあみになって
   あやしてくれる
   ああ こうだった
   きんいろの あやとりの もつれたいとが
   ふるえて その
   ふるえるのが
   ぼくをあやすので
   ぼくのふるえがぼくをあやす

 私も「少年時」を思い出しました。確かにこんな感じでしたね。蛍光灯ではなく黄色い「電灯
(でんき)」。その光が「涙で 大きな/かたまりになって/ふるえてい」ました。「光はあみになって」いましたし「きんいろの あやとりの もつれたいと」のようになっていました。なつかしいですね。50年も前のことが作品に刺激されて鮮明に蘇ってきます。詩の持つ力です。短い作品ですが巻頭作だけのことはあると思いました。




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