きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
この花、なに? | ||||
踊子草? 千鳥草? | ||||
はくさんちどり? てがたちどり? | ||||
2005.1.11 | ||||
自宅裏畑にて | ||||
2005.2.23(水)
22日から福岡県に出張していました。会社を出たのが13時前で、久留米のホテルに到着したのが20時前。新幹線に乗っていたのは5時間弱でした。同じ時刻に出発した上司は羽田に向かい19時頃到着していますから、やはり1時間ほど飛行機の方が早いですね。でも、乗継ぎの少ない新幹線は煙草も吸えるし、私にとっては快適な移動手段です。お互いに好きな方法で行って、現地集合にしようと言ってくれた上司に感謝!
今回は定番の富士山を撮ってみました。これも定番の富士川鉄橋を入れた写真です。新幹線で走りながら、しかも後向きで撮る形になりますから、意外に難しかったです。30枚ほど撮って、使えたのは10枚ぐらいですね。 天候はご覧のような快晴。車内のFM放送を聴いて、景色を楽しんで、のんびりと過させてもらいました。 |
夜は東京本社組を待って22時前からの夕食。福岡に来たら絶対に呑みたいと思っていた麦焼酎「中々」もあって、芋焼酎「富之宝山」も良かったです。0時前には帰って寝たのですけど、ちょっと呑み過ぎだったか? 朝起きたら顔がむくんでいた(^^;
23日は会議も何とかこなして、18時40分のANAで羽田に向かおうとしたのですが千歳の雪で飛行機が1時間ほど遅れました。早めに福岡空港に着いていたので、前の便にキャンセル待ちで乗ることができました。結局、私たちが乗ろうとした便は欠航になって、危なかったなぁ。帰宅は23時でしたが、下手をすると帰れなくなるところでした。
そうそう、福岡空港での待ち時間に「晴耕雨讀」という焼酎を呑んでみましたが、これもスッキリしていい味でした。そういえば今回は日本酒を1滴も呑まずに焼酎ばっかり。九州に行くとどうしても焼酎に眼が行ってしまうんでしょうね。
○詩とエッセイ誌『千年樹』21号 | ||||
2005.2.22 | ||||
長崎県諌早市 | ||||
光楓荘・岡 耕秋氏 発行 | ||||
500円 | ||||
たんぽぽ 早藤 猛
十一月も終りに近い空は
無心なこどものクレヨンの青色です
小春日和の暖かい光りを浴びて
道端の雑草にまじって
たんぽぽの黄色が
私の胸に鮮やかな生命(いのち)の輝きで染めてくれます
自動車の排気ガスを被りながら
純白の衣を着た天使の気高さです
ひっそりと道の端から
無償の癒しを風にのせて
たんぽぽの黄色が
私の目に生命(いのち)の花弁(はなびら)をつくっている
作者は千葉県在住で詩集に『北総台地』があります。千葉県には「暖かい」というイメージがあるのですが「十一月も終りに近い」ころに「道端の雑草にまじって/たんぽぽ」が咲いているというのは驚きです。もちろん詩作品ですから空想であっても構わないのですが『北総台地』から受けている印象を加味すると事実のような気がします。
紹介した作品は色の遣い方に魅了されますね。「クレヨンの青色」「たんぽぽの黄色」「純白の衣」と、出てくる色は単純なんですが、それらの醸し出す色彩の妙を感じてしまいます。作者のお人柄を知っているからかもしれません。北風の中の「小春日和の暖かい光り」を感じました。
○鶴若寿夫氏詩集『回帰』 | ||||
2005.2.22 | ||||
長崎県諌早市 | ||||
詩とエッセイ『千年樹』刊 | ||||
非売品 | ||||
回 帰
小石は岩に帰ろうとしている
テーブルは樹に戻ろうとしている
空は真っ赤に燃え
太古の光だけを残したいと考えている
夕焼けは狂気のなかにもあって
私はこの夕焼けがあまりにも父の魂と似ているので 正座して
私はどこに行くことができるのか と問うた
どこでもいいじゃないか
やがて私たちは土に還るのだ と父は応えた
違う チガウ ちがう と私はノーマン・メイラーのように抗弁した
実際には何がどう違うのか全くわからなかったが
私に帰る場所はないことだけがはっきりとしていた
赤紫の石たちは美しい花になろうとしている
曇った空は鳥になろうとしている
風は孤独と呼ばれるべきだと考えている
私の血は夕焼けに戻ろうとしている
腕に一筋の血の道ができたとき
パンパのように薄いきみの陰毛に
私の涙がこぼれ落ちる
父の涙のようでもあり光の涙のようでもある
私たちの涙
父は闇の戦場で一兵卒として青年時代を過ごし
私は偽りの左翼の活動家として青年時代を過ごし
光は闇のような施設で青年時代を過ごしている
だから私は光の血と涙が定まらぬ生の行方を探し
どこかへ消えたことを証明しようとしているが
実のところきっと私を捨てる場所を探しているに過ぎないのだ
漁り火が輝く闇に染まった私の眠り
静かな 恐ろしい程の静けさに満ちている
死と詩の間で
闇が
私を灰にする
父とは一つも約束しなかった
光とは何一つ約束できない
私は私との約束が何だったのか
忘れた 否 私は私との約束を破ったのだった
微細に入り組んだ雲の隙間から
降りつづける星のような雪のなかで
この美しさを忘れないでおこう と誓ったのに
あの日 最上階にある生の行き止まりで
私は私との約束を破ったのだ
詩と死の間で
私は灰になる
闇の残滓が
どこまでも続く
明日
静かすぎるほどの生の夢と夢の間に
父と光が立って
話している
私には解らない言葉で
光の声は美しく
父の声は悲しい
私たちは回帰する
回帰する時間があるのだ
なぜなら私たちは
過ちのうちに生きているのだから
だから私は
あの暗い星々が降る空の下に
もう一度立とう
あの時間に。
著者の第一詩集です。ご出版おめでとうございます。
でも、本当は誰の詩集に対してもおめでとう≠ネんて簡単に言えないのかもしれません。特にこの詩人に対してはそんな思いを強くしています。著者にとっての詩は、紋切り型の言い方になってしまいますが、本当の意味での命の証のように思います。そういう詩人に必要なのは詩で、詩集は二の次なのかもしれません。その証拠にこの詩集は『千年樹』の岡耕秋さんの後ろ楯が無かったら世に出なかったと思われます。不遜な言い方かもしれませんが、そう思うのです。
しかし、矢は放たれてしまいました。詩集が無ければ詩人として認められない現在の詩界に問題はあるにせよ、詩集というまとまった形で世に問う姿勢は公知となったのです。紹介したタイトルポエム「回帰」は、その意味でも記念碑となる作品でしょう。詩人がなぜ詩を選ばなければならなかったのかを余すところなく伝えています。もちろん他の作品にはここで書かれていないことがたくさんあって、詩人の全体像をこの1編で語るのは不可能です。だが、詩人の素質を伝えるには過不足のない作品だと私には思えます。
再び書きます。矢は放たれてしまいました。ご活躍を、などと言いたくありません。苦しんでください。生きること、詩を書くということにもっと苦しんで、「あの時間に」もどって、「光」になった姿を見せてみもらいたいと思っています。
○詩誌『複眼系』36号 | ||||
2005.2.25 | ||||
札幌市南区 | ||||
ねぐんど詩社・佐藤 孝氏 発行 | ||||
500円 | ||||
金は時なり 高橋淳子
直径二十センチの掛時計
台所に一つほしかった
まさかの百円ショップ
色とりどり
ちょこっと風水なんか気にかけたりして
黄色を選んだ
百円百円
壁の真中で軽快に時を刻み始めた
うれしくてことあるごとに眺め
百円百円
一ケ月が過ぎ
家にも馴み軽やかな音がなにげに
きこえるようになったある朝
六時を指している
一時間も寝ぼうしたと大慌て
やっと仕度が終ってほっとみあげる
あれ!
息切れでもしたのかと電池を換えると動き出した
百円百円
円板を自由気ままに百円百円
律儀に百円分だけ時を刻んだのだ
黄色い時計は相変わらず今も好き勝手
百円百円と楽しげだ
もちろん「時は金なり」のパロディーですが、現代だなと思います。私の町にも百均(と言うらしいですね)があって、家内と娘が愛用しているようです。私は神楽坂で一度だけ行ったことがあります。でも100円の封筒を買いましたが5枚しか入ってなくて大不満。それから行っていません。しかし「直径二十センチの掛時計」まであるとは驚きです。「電池」だけでも100円はするでしょうに…。
「百円ショップ」は時代の要請のように思います。ここは経済の場ではないので、それ以上は何とも言いようが無いのですが、価格破壊は起きるべくして起きた現象なのかもしれませんね。時代を捉えた面白い作品だと思いました。
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